【育将・今西和男】高木琢也「ナチュラルに選手の気持ちがわかる人」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 Jリーグ開幕を前にマツダが北欧遠征を組んだ際、スウェーデンで同リーグ2部のハルムスタッズBKと練習試合を行った。前半はサンフレッチェが押していたが、後半に相手ベンチが動いた。選手を一気に交代させるとフォーメーションも変えて、まったく違うスタイルで挑んできた。その変化があまりにスムーズで、今西はあたかも違うチームが出現したかのような印象を受けた。そして何より、ハルムスタッズの新たなシステムは、サンフレッチェの急所を的確に突いてきた。みるみる失点を重ねて敗戦。

「これはかなり組織されたチームじゃけえ、こんなことが出来るんじゃ。監督の指導がえらい届いとるんじゃのう。いったい誰や」。それがバクスターだった。

 日本サッカーがプロ化をすることを伝えて興味があるかとアプローチをすると前向きの返事が返って来た。後にイングランドU-19代表、南アフリカ、フィンランドなどの国家代表監督を歴任することになる監督をかように早い段階で見出し、そして招聘することに成功した。結果的にアジアの大砲・ヘッダー高木の最初の大きな覚醒も、このイングランド人との出会いによって生まれたといえよう。

 1994年6月11日。優勝に王手をかけた対ジュビロ磐田戦、前半29分にクリアミスから遠藤昌浩(のち雅大に改名)に先制弾を許すもその9分後だった。パベル・チェルニーのゴールキックを柳本啓成(ひろしげ)が折り返し、それに合わせた高木のヘディングシュートは敵味方が入り乱れるゴールのど真ん中に突き刺さった。ジュビロのボール支配は長かったが、後半44分には、チェルニーがついに優勝をもたらす決勝弾を決めた。

 この瞬間を日体大OBのスポーツニッポンの田辺一洋記者はこう伝えている。「研ぎ澄まされた矢じりはそのまま、果てしなく遠かった優勝の的を射抜いて"中央集権"のJリーグにハンディを背負う地方から新風を吹き込んだ」と。

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