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ラストステージへ。レッズを愛した山田暢久の20年 (2ページ目)

  • 河野 正●文 text by Kawano Tadashi
  • 山添敏央●撮影 photo by Yamazoe Toshio

 山田が、当時の心境を語る。

「岡野(雅行)さん(現ガイナーレ鳥取)にものすごい勢いで説得されたから思いとどまったけど、ケッペル監督のときも、J2降格のときも、まだ若かったから本気で移籍を考えた。だけど、他のチームに移籍していたら、試合に出ても何か物足りなかったと思う。最初からレッズにいる選手も、移籍してきた選手も、みんなが口をそろえるのは、『レッズでプレイするいちばんの喜びは、あの熱狂的なサポーターがいるからだ』ってこと。どんなときも(レッズのサポーターは)一緒に戦ってくれる。本当にありがたい。結局、自分の気持ちも最後にはそこに行き着く」

 4度目は、現在だ。クラブは11月14日、山田の代理人に来季の契約更新がないことを伝えた。

 10月27日(第30節)の柏戦で、史上3人目のJ1通算500試合出場を樹立。今季、節目の加入20年目が、浦和での最終シーズンとなった。山田が語る。

「クラブからはスタッフ入りを要請されているが、今はまだ何も考えられない。最後はレッズの山田で引退したいと考えていたけど、動けるうちは現役を続けたい。まだやれる自信もある」

 チーム最年長の38歳。だが、同僚のDF永田充は、「あの年齢で、あのフィジカルの強さは考えられない」と驚き、1994年に山田を指導した監督でもある横山謙三氏は、「スピードはあまり落ちていないし、起用すればどのポジションでもまだいい働きができる」と衰え知らずの頑強な肉体や、経験値の高さを評価する。

 人見知りで、照れ屋で、出しゃばるのが大嫌い。それゆえ、ファンやサポーターにぶっきらぼうな姿を見せてきたが、実際は20年間も応援し続けてくれた彼らが好きで、敬愛もしている。それを表立って口に出さないのが、いかにもこの人らしい。

 J2降格(1999年)、J1復帰(2000年)を経て、ナビスコカップ(2003年)で初タイトルを獲得した。2004年から5年間、主将を務める間には、ステージ優勝(2004年)、リーグ王者(2006年)、天皇杯連覇(2005、2006年)を果たした。さらに2007年には、アジアチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げ、クラブW杯3位という輝かしい実績を残した。酸いも甘いもかみ分け、人生の半分以上を浦和で過ごしてきた。山田が言う。

「プロになった当初は、せいぜい30歳までと思っていた。それが、まさかこんなに長く、しかもレッズで20年もプレイし続けられるなんて......。想像もしていなかった。苦しいときも多かったけれども、家族とサポーターが支えになった。なかなか優勝できなかったけど、キャプテンになってからはたくさんのタイトルを獲らせてもらった。ツイてるキャプテンだった。岡野さんもよく言っていたけれども、自分もサポーターがいたから、ここまでこられたと思う」

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