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ラストステージへ。レッズを愛した山田暢久の20年

  • 河野 正●文 text by Kawano Tadashi
  • 山添敏央●撮影 photo by Yamazoe Toshio

 浦和レッズの山田暢久はこれまでに4度、岐路に立たされた。

 静岡の藤枝東高に在籍していた山田は、2年時に全日本ユース選手権(現U-18プレミアリーグ)を制し、翌年、浦和をはじめ、名古屋グランパス、横浜マリノス(現F・マリノス)のJクラブのほか、当時はJFL(ジャパン・フットボールリーグ)だったジュビロ磐田、柏レイソル、セレッソ大阪など、計9つのプロチームから勧誘された。

1994年に浦和レッズに入団し、20年間第一線でプレイしてきた山田暢久。1994年に浦和レッズに入団し、20年間第一線でプレイしてきた山田暢久。 1度目の岐路だった。山田は浦和と名古屋に絞った末、ほぼ名古屋入りで固まっていたという。しかし、昔かたぎの父・恵一さんに説得された。

「いちばん初めに声を掛けてくれたのは、浦和だ。義理や人情を大切にするのが、日本の社会。そこをよく考えろ」

 浦和への方向転換は、この鋭い説法が決め手となった。恵一さんはふたりの息子、山田と弟の智紀さん(1998年~1999年、磐田に在籍)を幼少時から厳しくしつけてきた。カミナリおやじのひと言は、神の声にも似ていたそうだ。ただ山田自身、他のクラブにはない魅力をレッズに感じていた。

「父親の助言のほか、レッズを選んだ理由がもうひとつある。高校3年生のときに国立競技場の試合を観戦して、そのとき、レッズのサポーターが熱狂的な応援をしていた。あんな大勢の観客の前でプレイできたら、幸せだろうな、と思ったんです」

 そして1994年、浦和に加入すると、山田は新人ながらリーグ戦15試合に出場。2年目からは完全にレギュラーに定着し、42試合に出場した。同時に、ユース日本代表としても奮闘。アジアユース(U-19)選手権で準優勝し、翌年のワールドユース選手権(現U-20W杯)では、日本初のベスト8進出に貢献した。プロ入り3年間は、まさに順風満帆だった。

「(レッズに入って)1年目は練習量、特に走り込みの多さにはびっくりした。福田(正博)さんや(土田)尚史さんら、先輩の威圧感にも圧倒されっぱなしだった。でも、いつもホームゲームには満員のお客さんが詰めかけてくれて、すごくやりがいがあった。レッズを選んで良かったと思った」

 しかし、そこに訪れたのが2度目の岐路である。1997年、ホルスト・ケッペル監督から突然、約2カ月半のサテライト行きを命じられたのだ。「練習も試合もしっかりやっていたし、思い当たる節は何もない」と首をかしげる。さらに2年後、J2降格が決まった1999年も、自らの進むべき道について深く考えた。

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