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なぜ46年前のサッカー日本代表に突如「夢の中盤」が出現したのか 風間八宏が語る清水、ユース代表、川淵三郎監督 (4ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Takeo Goto

【瓦解した中盤】

 選手たちをストレスなく戦わせた川淵監督は、コーチだった森孝慈に監督の座を譲ってすぐに退任してしまう。

 風間は「川淵さんが監督をやっている姿を、もう少し見てみたかったという気持ちはありますね。そうしたら、Jリーグができるのが遅くなったかもしれないけど」と笑う。

 3人のMFのうち風間は自らの意志を貫いて日本リーグ(JSL)の実業団入りすることなく西ドイツに渡った。攻撃的MFの戸塚は1984年にはJSLの得点王になるなど活躍を続けるが、代表のプレースタイルを嫌って招集辞退を繰り返した(1985年のW杯予選で一時的に代表に復帰)。

 残ったのは金田と、香港ではウイングを務めていた木村だけ。彼らは、日産自動車の加茂周監督のアイディアで木村が中盤に下がり、金田がウイングとなってからも長く日本代表を牽引することになる。

 森監督の下で日本代表は順調に強化を続けたかに見えたが、1984年のロサンゼルス五輪予選を前に森監督が数人のベテラン勢を復帰させたことでチーム内に不協和音が生じ、五輪最終予選では4戦全敗と惨敗を喫してしまった。

 だが、森監督のチームは1985年に行なわれたメキシコW杯予選では快進撃。東アジア予選決勝で韓国とホーム&アウェーで対戦。勝てばW杯初出場というところまで漕ぎつけた。結局、すでにプロ化していた韓国が2連勝して日本代表は涙をのんだのだが、東京・国立競技場での第1戦では木村和司が"伝説のFK"を決めて一矢を報いた。

 木村は、1986年には奥寺康彦とともに日本で最初の「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」、つまりプロ登録選手となる。

 その後、1990年代に入ると日本には名波浩や中田英寿、小野伸二、遠藤保仁といった優れたMFが次々と現われて、国際試合でも日本が中盤を支配するのが普通のこととなっていった。1980年のスペインW杯アジア1次予選で実現した「夢の中盤」は、いわば時代を十数年先取りするものだったのだろう。

著者プロフィール

  • 後藤健生

    後藤健生 (ごとう・たけお)

    1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7700試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。

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