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なぜ46年前のサッカー日本代表に突如「夢の中盤」が出現したのか 風間八宏が語る清水、ユース代表、川淵三郎監督 (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Takeo Goto

【夢の中盤の衝撃】

 日本で新聞記事を通じて結果だけを追っていた人たちは、「ああ、やっぱりまた負けたか」と思ったことだろう。なにしろ、試合の映像(動画)を簡単にチェックできるような時代ではなかったのだから......。

 しかし、現地で日本代表の試合を観戦した僕にとっては日本代表の「夢の中盤」の衝撃は大きく、あれから半世紀近くが経過した今でもけっして忘れることができない記憶となっている。

 なお、予選大会決勝戦の中国対北朝鮮は2-2のまま延長に入り、延長後半の黄向東と古広明の連続ゴールで4-2と中国が勝利してアジア最終予選に進出。

 ホーム&アウェー方式で行なわれた最終予選でも、中国は最終戦を終了した時点でクウェートに次いで2位に付けており、得失点差でも大きくリード。当時のアジア枠は「2」だったのでW杯初出場に王手をかけていた。ところが、ニュージーランドがアウェーでサウジアラビアを5-0で破って勝点、得失点差ともに並んだため、中立地のシンガポールでプレーオフが行なわれてニュージーランドが勝利。中国はW杯初出場を逃してしまった。

 1980年のスペインW杯アジア1次予選の時に「夢の中盤」が実現できたのは偶然ではなかった。まず、1970年代末頃からテクニックを持った若い選手が次々と現われたことが理由のひとつだ。

 1960年代の東京、メキシコの両五輪で日本代表が活躍したことで、サッカーをプレーする少年の数が飛躍的に増えた。また、ペレ率いるスター軍団のブラジルが圧倒的な強さを発揮して優勝した1970年のメキシコW杯の全試合が「録画中継」という形でテレビ放映された。

 そのブラジルのプレーに刺激を受けて、日本でもテクニシャンを育てようと考える指導者が各地に現われた。それまでの日本では体力勝負や根性論的な指導がまかり通っていたのだが、一部にそういう新しいスタイルの指導者が出てきたのだ。

 1970年代に日本代表は負け続け、日本ーリーグの試合会場には閑古鳥が鳴いていたが、各地で少年たちが育っていた。

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