なぜ46年前のサッカー日本代表に突如「夢の中盤」が出現したのか 風間八宏が語る清水、ユース代表、川淵三郎監督 (3ページ目)
【テクニックのある選手が育った背景】
風間は静岡県清水市(現、静岡市清水区)で育った。1960年代に小学校教諭の堀田哲爾が小学生のリーグ戦を組織したことをきっかけに、清水では市内の学校が一体となって選手を育てる組織が作られ、少年サッカーや高校サッカーで全国をリード。数多くの名選手も輩出することになった。
その清水を代表する強豪高校のひとつ、清水商業高校(清商=現、清水桜が丘高校)の中心として活躍したのが風間だった(もっとも、静岡県内には強豪校が数多く存在したため、清商は全国選手権には出場できなかったのだが)。
風間は、市全体が一丸となっていたことを示すエピソードとして、大学進学時の話をしてくれた。
「筑波大学を受けてみたらどうかと言われたのは、清商の大滝(雅良)先生ではなく、ライバル校である清水東の勝沢(要)先生なんですよ。で、『実業高校から推薦で入ったやつはひとりもいない』と言われ、僕はそれほど大学に行きたかったわけではないけど、受けてみたら、受かっちゃった。サッカー界が今のようだったら高校行く前に海外へ行っちゃうか、高校を途中で辞めていたかもしれませんね」
また、金田や1学年後輩の木村は広島県立広島工業高校出身だった。
サッカー部を指導した松田輝幸は1969年に日本で開かれたFIFAコーチングスクールでライセンスを受け、日本ユース代表監督経験がある指導者で、テクニック重視で数多くの有名選手を育てている。
また、中盤の3人のうち最後に日本代表入りした戸塚は読売サッカークラブ育ち。当時としては珍しいクラブチームで選手たちは契約に基づいてプロ的な待遇を受けており、若い選手たちも与那城ジョージやラモス瑠偉など多くのブラジル出身選手がいるトップチームと一緒に練習する環境が整っていた。のちに左サイドバックの選手として名を馳せるが、香港の大会では右サイドバックを担当していた都並も戸塚と同学年の読売クラブ出身の選手だった。
また、若い選手が早くから代表入りできたのは、1979年に日本で第2回ワールドユース大会(現、U-20W杯)が開催されたことも大きかった。
「スカウト網が広がったんじゃないですかね。高校生400人くらいから選ばれているんですよ。(強化のために)すごく投資してもらって。ただ、みんな燃え尽きてしまってすぐにフル代表に入ったのは僕とGKの鈴木だけだった。ユースで一緒だった(水沼)貴史さんとはフル代表では入れ違いになってしまって、一緒にやってないんですよ」と風間。
世界大会の開催は日本サッカー協会にとってビッグプロジェクトであり、全国からタレントを発掘し、当時としては巨額の費用を投じて強化に努めたのだ。
ワールドユースは、前年のW杯で優勝したセサール・メノッティ監督率いるアルゼンチンが圧倒的な強さを見せて優勝。ディエゴ・マラドーナやラモン・ディアスのプレーが日本中を魅了した。
「優勝したアルゼンチンや準優勝のソ連がボール回ししているのを見て、『楽しそうだな』って思いました。俺たちは走ってばっかりで、ボールを触らせてもらえなかったから(笑)」
そして、大会直前に渡辺正監督が病気で倒れたことによって、風間が「特別な監督だった」という川淵三郎が監督に就任。思いきった若返り策でテクニシャンタイプの若手選手を集めて、プレーに制約を課すことなく、彼らのテクニックを発揮して戦わせたのである。
そうした様々な要因が重なって1980年の12月に出現した「夢の中盤」......。日本サッカーの前に大きな明るい未来が見えた気がしたのだが、「夢の中盤」はたちまちのうちに瓦解してしまう。
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