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名良橋晃がフランスW杯で痛感した世界との差「シュケルは怖かった。常にゴールを狙っていた」 (4ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 続くクロアチア戦は、負けるとグループリーグ敗退が決まってしまう重要なゲームとなった。気温30度を超える暑さのなか、名良橋が痛感させられたのは、自らのさらなる守備力の向上だった。

「Jリーグだと、自分の距離感でアプローチしていけばボールが取れるんですけど、クロアチア戦では相手のボールの持ち方を見て、自分の距離の詰め方でボールを取りに行っても取れないんです。うまく誘われるというか、アプローチに行っても簡単に剝がされてしまう。どういうタイミングで行かないといけないのか。開始早々から、そのことをすごく考えさせられました」

 試合は消耗戦の体を成していたが、クロアチアは"省エネ"サッカーを実践。日本にボールを持たせて、カウンター狙いに徹していた。

 反対に、日本はボールを保持して積極的に仕掛けた。前半34分には中山が決定機を迎えたが、相手GKに阻止されてゴールを奪うことができなかった。

 膠着状態に見えたが、自分たちの戦略を貫いたクロアチアが日本の動きが鈍り始めた後半32分、カウンターからダボル・シュケルがゴールを決めて均衡を破った。

「クロアチアもアルゼンチン同様、試合巧者でした。暑さのなかで無理をせず、体力を温存しながら"ここぞ"というときに決めてくる。現にシュケルの決定力はすごいなと思いましたし、『これが世界だな』っていうのを思い知らされました。

 事実、守っていてシュケルは怖かったです。対面にいたし、常にゴールを狙っていました。この大会、シュケルが得点になりましたけど、点が取れるストライカーがいることにも世界との差を感じました」

 クロアチア相手に1点が遠かった日本。0-1で敗れて、グループリーグ敗退が決まった。

(つづく/文中敬称略)

名良橋 晃(ならはし・あきら)
1971年11月26日生まれ。千葉県出身。高校卒業後、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の前身となるJSLのフジタ入り。1994年にJリーグ昇格後も、チームの主軸として活躍。日本代表にも招集される。その後、日本代表への定着を目指して、1997年に鹿島アントラーズに移籍。1998年フランスW杯出場を果たす。鹿島でも攻撃的なサイドバックとして奮闘し、「常勝軍団」の一員として活躍した。2007年、古巣の湘南ベルマーレに移籍後、2008年2月に現役引退。国際Aマッチ出場38試合。現在はサッカー解説者、指導者として奔走している。

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