日本代表定着へ、名良橋晃が鹿島アントラーズに移籍した本当の理由「不安と危機感でいっぱいだった」 (4ページ目)
(最終ラインには)チームメイトの秋田さんと相馬がいて、井原さんもめちゃくちゃやりやすかった。攻撃ではヒデがいたので、(3バックの)ウイングバックに入ったときには攻撃の比率が高くなって、自分の持ち味を生かせる状況でした。(予選では)チームの勝利に貢献して、フランス行きを勝ち獲りたいと強く思っていました」
一次予選を難なく突破して、いよいよ最終予選に挑むことになった。前回は出場6カ国によるセントラル開催(カタール・ドーハ)で行なわれた最終予選は、一次予選を勝ち抜いた10チームが2組に分かれて、各組2回戦総当たりのホーム&アウェー方式で行なわれることになった。
日本は、韓国、UAE、ウズベキスタン、カザフスタンと同組に。そこで首位となれば、文句なしでW杯の出場権を得ることができる。2位でも、もう一方の2位との第3代表決定戦に勝てば、W杯の出場切符を手にできるレギュラーションだった。
1997年9月7日、国立競技場。初戦の相手はウズベキスタンだった。
その日の国立競技場は、満員のファンが集結。名良橋は「雰囲気がすごかった」と、ゾクゾクするような興奮を覚えた。
結果は、6-3の勝利。日本は絶好のスタートを切った。
「3点取られましたけど、6点取って勝利。(最終予選へ)いい入りができました」
だが、アジアの壁はそう簡単に打ち破れるものではなかった。幸先のいいスタートを切って、日本中が初のW杯出場へ胸を膨らませていたが、すぐに現実を突きつけられることになる。アウェーのUAE戦を0-0と引き分けたあと、ホームの韓国戦を1-2で落とした。
「流れがおかしくなったのは、韓国に1-2と逆転負けしてからです。ただこのときは、負けてショックだったけど、『切り替えていこう』というポジティブなムードがまだ、チームにはあったんです。
でも、中央アジアに行って、カザフスタン戦で最後に追いつかれて、1-1で引き分けてから完全に流れが悪くなってしまった。結果がともなわない試合が続いて、その夜、加茂さんが解任されて......。最終予選の途中だったので、かなり驚きました」
その夜、選手たちは集まって、お互いの腹の底にたまっているものを吐き出した。そうして、名良橋もあらためて自らの気持ちを奮い立たせた。そこには、ベルマーレ時代に同僚だった小島伸幸の存在もあった。
「ノブさんはチーム最年長で、第3GKという立場で悔しい思いもあったと思うんですが、そういう振る舞いをいっさい見せず、縁の下の力持ちといった役割を全うしてくれていたんです。ノブさんのためにも、試合に出ている選手はもっと責任感を持ってプレーしないといけないと思いました」
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