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日本代表定着へ、名良橋晃が鹿島アントラーズに移籍した本当の理由「不安と危機感でいっぱいだった」 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

1997年、鹿島アントラーズに移籍した名良橋晃 photo by J.LEAGUE/J.LEAGUE via Getty Images1997年、鹿島アントラーズに移籍した名良橋晃 photo by J.LEAGUE/J.LEAGUE via Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る それでも、最終的にクラブ間で移籍話が合意。名良橋のアントラーズ入団が決まった。しかしながら、代表からは依然として声がかからなかった。

「代表復帰は5月の(親善試合)韓国戦の頃にあるんじゃないかって、僕の耳にも入ってきたんですけど、結局呼ばれなかった。その試合で、ヒデ(中田英寿)が鮮烈なデビューを見せて、そこから代表の中心選手になっていった。待っているだけじゃなく、代表復帰への道筋も自分で考えてやっていかないといけないと思いました」

 その道筋をつけるために、名良橋がテコ入れしたのが守備だった。

「ベルマーレでは前に行かないとニカノール(・デ・カルバーリョ)監督に怒られるので(攻撃的に)行くしかなかったんですけど、世界を見ると攻撃だけ、守備だけ、じゃダメ。(1995年6月の)アンブロ杯でブラジルとやった時、ロベルト・カルロスが攻撃はもちろん、守備もすごくて、『なんなんだ、こいつは』と衝撃を受けたんです。

 世界で戦うには守れないとダメと思い、アントラーズに入ってから秋田(豊)さんから細かくポジショニングについて学びました。本田(泰人)さんからはバランスについてよく言われ、前に行く時は左とのバランスを考えて、タイミングよく上がることを意識していました。攻守にバランスの取れた選手になることでよりよいパフォーマンスを発揮し、それが代表にもつながると思ったのです」

 1997年3月から始まったフランスW杯アジア一次予選、オマーンラウンドでの日本代表の最終ラインは、井原正巳と小村徳男がセンターバックを務め、右が柳本、左が相馬だった。その後、センターバックは井原と秋田がコンビを組むようになっていく。

 その最中、柳本が故障して戦列を離れると、アントラーズでの秋田、相馬らとの安定した守備が評価されたのだろう。一次予選の日本ラウンドを前にして、名良橋がおよそ1年8カ月ぶりに代表復帰を果たした。

「アジア一次予選は当初、自分が(代表に)呼ばれない悔しさもあって、日本の試合は見ていなかった。悔しいと、見たくなくなるんですよ。でも、一次予選の日本ラウンドの前に復帰できた。そのときはホッとしました。

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