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日本代表定着へ、名良橋晃が鹿島アントラーズに移籍した本当の理由「不安と危機感でいっぱいだった」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 アジア大会の結果を受けてファルカンが解任され、後任には加茂周が就任した。チームがシャフルされたが、1995年のインターコンチネンタル杯、ダイナスティ杯を経たあと、名良橋は3バックの右ウインバックでレギュラーを獲得。左ウイングバックの相馬直樹とともに"不動"の存在になりつつあった。

 ところが、ある試合の敗戦で名良橋は代表での居場所を失った。

「その日のことは、今でもよく覚えています。(1995年9月に行なわれた親善試合の)パラグアイ戦で、そのときは4バックだったんですが、試合は完敗。(右サイドバックに入った)自分のパフォーマンスもよくなくて、途中交代したんです。

 翌月には(親善試合の)サウジアラビア戦があったんですけど、『代表に呼ばれるかなぁ、どうかなぁ......』と思っていたら、結局呼ばれなかった。そこからですね、代表から外れていったのは......」

 そうした状況はある意味、「なるべくして、そうなった」と名良橋は感じていた。

「(1995年の)そのシーズンは、(所属の)ベルマーレも監督交代などで揺れていて、結果が出ていなかったんです。そういうなかで、自分のパフォーマンスも落ちてきたというのはすごく感じていました。このままいくと、代表から外れたままになってしまう。ワールドカップにも行けない。そういう不安と危機感でいっぱいでした」

 名良橋が外れて以降、代表の右サイドバックには柳本啓成が入り、左の相馬とともに最終ラインを固めていった。

 翌1996年もベルマーレは低迷し、11位に終わった。名良橋はシーズン途中から移籍について考えていた。

「1996年は、日本代表が(キリン杯で)ユーゴスラビアやメキシコに勝ったりして調子がよかった。(自分は)その代表に戻るためにはどうしたらいいのかっていうのをすごく考えていました。

 やっぱりW杯に出たいですし、代表でプレーしたい。うまくなりたい。そのひとつの答えとして、環境を変えて、ステップアップしていくことが大事だと思ったのです。自分は(1990年から)6年間、ベルマーレでプレーしていましたし、そろそろ動く時期かなと。

 移籍の対象となるチームは、鹿島アントラーズでした。(当時アントラーズに所属していた)ブラジル代表のジョルジーニョは憧れの選手でしたし、彼と同じチームになって、いろんなことを吸収したい、と。彼はアントラーズではボランチだったので、右サイドバックで勝負できるかもしれないとも思ったんです」

 1996年シーズンが終了し、名良橋はベルマーレ退団を決めた。だが、アントラーズとの交渉は合意には至っていなかった。年が明け、アントラーズはブラジルキャンプに出発したが、その時点でも移籍は決まらなかった。名良橋は日々、「どうなってしまうのか......」と不安が募るばかりだった。

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