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サッカー日本代表の名シーンが何度も生まれる長居スタジアム 日本最大級のスポーツ公園の歴史 (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【53年前の観戦の思い出】

 僕が初めて長居スタジアムまで観戦に行ったのは、1972年9月の日本代表対フェレンツヴァロシュ(ハンガリー)の試合だった。

 ハンガリーは今ではFIFAランキング37位とすっかり弱体化してしまったが、1950年代前半には「マジック・マジャール」と呼ばれて世界最強の名をほしいままにしたし、東京、メキシコの両五輪を連覇したばかりだった(メキシコ大会準決勝では5対0で日本を一蹴)。

 つまり、当時の日本のサッカーファンにとってみれば、ハンガリーは憧れの国のひとつだったのだ。

1972年9月の長居での日本代表戦チケット(画像は後藤氏提供)1972年9月の長居での日本代表戦チケット(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る 若い頃、僕は日本の古代史にはまっていたので、奈良県の飛鳥を訪問してから長居に向かうことにした。

 そして、普通だったら国鉄(今のJR)か近鉄を利用して大阪府に入るのだろうが、20歳になったばかりの僕は無謀にも古代人が通った道を歩いてみることにしたのだ。二上山(にじょうさん)の南の竹内(たけのうち)峠を通って、聖徳太子ゆかりの大阪府太子町に出ようという行程だ。

 距離的には無理な距離ではない。だが、試合があったのは9月3日で残暑が厳しかったのが大誤算。長居スタジアムに到着する頃にはすっかり消耗してしまっていた。

 ちなみに、試合は2対2の引き分けに終わった。

 当時の日本代表にはメキシコ五輪銅メダルメンバーの多くがまだ残っており、五輪後に病気で離脱していた釜本も復帰し、ネルソン吉村も代表入り。釜本と吉村のコンビネーションは抜群だったし、さらにのちに西ドイツ・ブンデスリーガで活躍することになる当時20歳の奥寺康彦も加わっており、この頃の日本代表はそれなりに強かったのだ(その後、メキシコ五輪組が引退すると弱体化してしまう)。

 長居スタジアムには、その後も何度か行ったことがある。

 1977年のインデペンディエンテ(アルゼンチン)戦や1980年のウーイペシュト・ドージャ(ハンガリー)戦は2月の寒い時期の試合だったが、やはり最初に訪れた時の印象が強いのか、長居スタジアムの写真を見るたびに、暑かったフェレンツヴァロシュ戦の記憶ばかりが蘇ってくるのである。

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著者プロフィール

  • 後藤健生

    後藤健生 (ごとう・たけお)

    1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。

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