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サッカー日本代表の名シーンが何度も生まれる長居スタジアム 日本最大級のスポーツ公園の歴史 (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【公園の計画は100年前、スタジアムは61年の歴史】

 この、総面積66.3ヘクタールという巨大な公園が計画されたのは、今から100年近く前のことだった。

 1925年に大阪市は周囲の町村を編入。人口は211万人に達し、東京市(当時)を抜いて日本最多・世界第6位という大都市が誕生した。そして、1928年には郊外にいくつかの公園予定地が設定された。長居公園もそのひとつで、当初は近くの仏教寺院の名を取って「臨南寺公園」と呼ばれた(臨南寺は今も球技場の南側に存在する)。

 こうした大改革を進めたのは関一(せきはじめ)大阪市長だった。

 関市長は都市計画学者であり(そもそも「都市計画」という言葉を作ったのが関市長)、大阪港や地下鉄をはじめ、さまざまなインフラを整備したが、遠い将来を見据えて公園予定地を設置したのだ。財源不足で公園の整備は進まなかったが、公園予定地だったので周囲が乱開発されるなかで巨木などの自然がそのまま残された。

 第2次世界大戦後は、復興資金を調達するために長居公園内に競馬場と競輪場が造られたが、日本経済が安定してくると公営ギャンブル批判の声が高まり、1962年までに競馬も競輪も廃止され、競輪場の跡地に長居スタジアムが完成したのは1964年のことだった。

 このスタジアムは2万3000人を収容する西日本最大の陸上競技場だったが、スタンドはメインとバックだけで、両ゴール裏には何もないという珍しいデザインだった。

 ところで、1964年と言えば東京で五輪が開催された年である。関西蹴球協会は東京五輪の準々決勝で敗退した4チームを招待して、新しく完成した長居スタジアムを使って「大阪トーナメント」を開催した。サッカー普及のためである。

 この大会で日本代表はユーゴスラビアと対戦し、1対6という大敗を喫したのだが、日本唯一の得点を決めたのは釜本邦茂。そして、ユーゴスラビアではイビチャ・オシムが2ゴールを決めている。そう、のちに日本代表監督となった、あのオシムである。

 1965年に日本サッカーリーグ(JSL)が始まると、長居スタジアムでは関西から唯一参加したヤンマーディーゼル(C大阪の前身)の試合が開催された。1967年には日本代表のエース釜本がヤンマーに入団。さらに日系ブラジル人のネルソン吉村らも加入してヤンマー人気は高まり、好カードでは長居スタジアムに満員に近い観客が詰めかけた。

 また、1970年代に入ると、全国高校選手権大会でも長居スタジアムがメイン会場となり、関西での最後の大会となった第54回大会では、埼玉県の浦和南が優勝。FWの田嶋幸三(前JFA会長)が活躍した。

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