三笘薫、中村敬斗、伊東純也...サッカー日本代表で次々に出てくる名ウインガーの元祖は誰? (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【ブンデスリーガで9シーズン活躍したレジェンド】

 杉山と同じくスピードドリブルを武器として西ドイツに渡ったのが奥寺康彦だった。

 相模工業大附属高校(現、湘南工科大附属高校)から古河電工(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入社した奥寺はたちまち頭角を現わす。古河からブラジルのパルメイラスに短期留学した奥寺はフィジカル面の重要性に気づいて、さらにスピードに磨きをかけていく。

 当時のJSLには、スピードとパワーを兼ね備えた奥寺のドリブルを止められるDFはいなかった。奥寺は、ただ縦に走るだけで得点を重ねた。日本代表でも、1976年にマレーシアで開催されたムルデカ大会で釜本と組んでプレーした奥寺は得点王に輝いた。

 1977年夏には日本代表が欧州に遠征。西ドイツの名将ヘネス・バイスバイラー(1.FCケルン監督)と親交のあった二宮寛監督は、選手を数人ずつに分けてブンデスリーガの各クラブのプレシーズン合宿に参加させた。奥寺は1.FCケルンの合宿に参加。そこで、引退するハンネス・レーアに代わるウインガーを探していたバイスバイラー監督に目を付けられたのだ。

 日本人選手がプロとして西ドイツのクラブと契約する......。まったく前例のないことで奥寺自身は躊躇したが、二宮監督や日本サッカー協会のあと押しもあって、ついに海を渡る決意する。奥寺に与えられたポジションは左ウインガーで、1979年のチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)準決勝で同点ゴールを決めるなど活躍した。

 W杯にも五輪にも出場できない日本サッカーの当時の状況を考えたら、日本人が西ドイツでプロになるなど夢のような話だった。

 僕はこういうふうに理解した。

「戦術眼を要求されるMFやフィジカル的な強さが必要なCFは日本人には難しいが、スピード勝負のウインガーなら通用するのだろう」

 だが、奥寺はその後、戦術理解能力が高く評価され、ヴェルダー・ブレーメンのオットー・レーハーゲル監督は奥寺をサイドバック、またはウイングバックにコンバート。奥寺は9シーズンに渡ってブンデスリーガで活躍することになった。

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