三笘薫、中村敬斗、伊東純也...サッカー日本代表で次々に出てくる名ウインガーの元祖は誰? (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【1964年東京五輪で注目を集めた20万ドルの男】

 当時の日本蹴球協会(現日本サッカー協会)は東京五輪に向けて、西ドイツ(当時)から特別コーチとしてデットマール・クラマーを招聘。まだ30歳代の長沼健と岡野俊一郎を監督、コーチに抜擢。長期合宿や欧州遠征を繰り返して代表強化を図った。

 代表にはその後、世界的なストライカーとして知られるようになる釜本邦茂もいたが、東京五輪時にはまだ弱冠20歳。最も脚光を浴びたのは釜本より3歳年長の杉山だった。

 日本は、初戦で南米の強豪アルゼンチンに3対2で勝利した(当時の五輪はプロの出場が禁止されていたから、アルゼンチンはプロ契約前の若手選抜)。そして、試合後にアルゼンチンの役員が岡野コーチに「あのウインガーを連れて帰りたい」と言ったというのだ。杉山のことだ。

 もっとも、「20万ドル」という金額は岡野コーチが創作した話のようだ。サッカーは当時の日本ではマイナー競技だったので、マスコミの注目を集めるために岡野コーチは「20万ドル」という数字を使ったのだ。

 為替レートは1ドル=360円の固定相場制だったから、20万ドルは7200万円。当時、プロ野球でもそんな金額の契約金はなかったから、杉山に注目が集まった。

 東京五輪の翌年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)でも、三菱重工(浦和レッズの前身)の杉山は最大のスターだった。当時は自由席が大半だったから、スタンドは杉山が走るタッチライン沿いから埋まっていった。

 当時の日本では足の速い選手がウイングを任され、ウインガーは俊足を生かしたドリブルでコーナー付近まで持ち込んで、センタリングを上げるのがスタンダードなプレーだった。腰を落としてボールをつつきながら縦に抜けていく杉山の俊足ドリブルは、サッカー少年たちのお手本だった。

 センターフォワード(CF)の釜本は、東京五輪後の4年間で世界的ストライカーに成長。1968年のメキシコ五輪で、日本は杉山と釜本のコンビを生かして戦った。スイーパーを置いて守備を固め、杉山が左からドリブルで持ち込み、杉山のセンタリングを釜本が決める......。

 実際、メキシコとの3位決定戦ではこのシナリオどおりの2点が決まり、日本が2対0で勝利して銅メダルを獲得した。

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