「ドーハの悲劇」から30年 日本サッカーの進化の過程をつぶさに見てきた福田正博の実感

  • text by Tsugane Ichiro

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福田正博 フットボール原論

■サッカー日本代表があと一歩のところでW杯出場を逃した「ドーハの悲劇」から30年が経った。現場の当事者だった福田正博氏に、現在まで日本サッカーの進化の過程とその理由をどのように見ているのか、語ってもらった。

30年前、カタール・ドーハでW杯最終予選に臨んだ日本代表。左から3人目が森保一現日本代表監督 photo by AFLO30年前、カタール・ドーハでW杯最終予選に臨んだ日本代表。左から3人目が森保一現日本代表監督 photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る

【飛躍のきっかけはコンプレックスからの解放】

 ドーハの悲劇から10月28日で30年。振り返れば、あっという間だった。

 1992年にアジアカップで優勝して初めてアジアを制し、1993年5月15にJリーグがスタートした。ワールドカップにも行けるんじゃないかという気になった。

 それまでの日本サッカーは、アジアで勝つことが難しく、海外でプレーするなんて夢のまた夢。そういう時代にあったなかで、1994年アメリカW杯アジア予選は、出場が現実的に手の届く目標になった。

 7大会連続出場してW杯に出るのは当たり前で、しかも本大会の目標がベスト8以上。ドーハの悲劇を知らない世代にとっては、W杯出場が目標だったことが信じられないだろう。しかし、つい30年前までの日本代表はW杯に出場することすら難しいレベルだった。

 それが、いまでは選手たちは海外のトップリーグで堂々とプレーしている。日本サッカーはドーハの悲劇を乗り越えて、たくましくなったと思う。30年間で日本サッカーのレベルが、ここまで成長を遂げたのは本当にすごいことだ。

 我々の世代は韓国や北朝鮮、中国に苦手意識があった時代だった。1990年代のはじめまでは、キリンカップでも対戦相手はクラブチームだった。世界的にサッカーを取り巻く環境がいまとは大きく違ったとはいえ、国際親善試合でいわゆる格上の代表チームと対戦するのは難しかった。

 そんなレベルにしかなかった日本サッカーが飛躍できたきっかけは、コンプレックスからの解放が大きかったと思う。

 当時の日本代表は韓国代表に歯が立たず、指導者は「韓国に当たり負けしないサッカー」を目指した。相手の土俵で戦って勝とうとしたのが、それまでの日本サッカー界の考え方だったが、1992年にハンス・オフトさんが日本代表監督になって、日本選手の良さを前面に出すサッカーをやれば勝てることを教えてくれた。

 オフトさんはオランダ出身だが、見落としていけないのは指導者として1982年から日本サッカーに関わっていた点だろう。日本選手の良さを指導の現場を通じて理解していたからこそ、日本代表監督になった時に、『試合で勝つために日本人選手の良さを前面に出すサッカー』にアプローチできたし、我々選手たちも結果をひとつ出すたびに自信を膨らませることができたのだ。

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