玉田圭司は「史上最強」と言われた日本代表の悪夢をどう見ていたか「これがW杯なのか...」

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun
  • photo by REUTERS/AFLO

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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第20回
ドイツと南アフリカ――2度のW杯で体感した真逆の試練~玉田圭司(1)

 2006年ドイツW杯のブラジル戦で、世界をアッと言わせるゴールを決めた玉田圭司。

 その数カ月前の2005年の終わり、玉田は夢の舞台に立つために大きな決断をしていた。1999年に加入し成長を重ねてきた柏レイソルから、名古屋グランパスへの移籍を決めたのである。

「僕は、レイソルに育ててもらいましたし、レイソルでプレーしたおかげで、日本代表という道が開けた。チームに愛着があったので迷いましたけど、僕個人としてはやっぱりW杯に出たかったんです。

(日本代表監督の)ジーコは『J2のチームからは選ばない』とは言っていないんですけど、W杯に出るためにどうすべきかを考えると、やっぱりJ2よりもJ1でプレーしたほうがいい。そう思ったので、グランパスに行くことを決めました」

 柏は2005年シーズンを16位で終え、ヴァンフォーレ甲府との入れ替え戦に敗れてJ2へ降格。2006年シーズンの戦いの舞台は、J2に決まっていた。

 ドイツW杯を視野に入れていた玉田にとって、それは決していい状況とは言えなかった。日本代表に入り、W杯で戦うことを考えれば、日頃からより高いステージでプレーすることは必須。J1クラブへの移籍は必然のことだった。

 しかも、移籍先となった当時の名古屋には、日本代表GKの楢崎正剛をはじめ、藤田俊哉ら質の高い選手がそろい、玉田にとっては願ってもない環境だった。

 だが、加入した直後、いきなり試練が訪れた。

 2005年11月に負傷していた足指の手術をし、2006年のキャンプに合流したが、別メニューの日々が続いた。そのため、チーム戦術にフィットするのに時間を要した。さらに、指揮官であるセフ・フェルフォーセン監督の要求と、自分のプレースタイルとのギャップに悩んだ。

「セフとは......う~ん、合わなかったですね。自分が若かったせいもあって、前で体を張るとか、『それは自分のプレーじゃない』と思ったんです。レイソルの時はベテラン選手がチームを固めているなかで、(若い)僕は立場的に自由を与えられて、チームのことより自分のことだけに集中してプレーできていたんです。

 でも、グランパスでは僕より若い選手もいて、『代表の玉田』という見方もされ、チーム全体を見ながら自分もプレーしなければいけない。それはわかっているんですが、それを本当にすべきなのか、自分らしくわがままに突き進んだほうがいいのか、自分のなかで少し迷っていたところがありました」

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