『ハーフナー・マイクが練習を無断欠席』の真相。念願だったスペイン挑戦で「僕の選手としての評判はガタ落ち」
ハーフナー・マイク引退「17年間のプロ生活」を語る(中編)
◆前編はこちら>>「自分のポテンシャルをフルに出しきれなかった」
大きな期待を集めてユースから昇格したものの、プロデビューした横浜F・マリノスでは結果を残せなかったハーフナー・マイク。だが、2009年にレンタル移籍先のサガン鳥栖(当時J2)で15得点を奪ったあたりから、ようやく歯車が噛み合い始める。
その活躍が認められて2010年にはヴァンフォーレ甲府に完全移籍すると、20得点をマークしてJ2得点王を獲得し、チームのJ1昇格に貢献。そして、エースストライカーとしてJ1の舞台に戻ってきた2011年シーズン──。
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ハーフナー・マイクは2014年夏にスペインに飛び立ったこの記事に関連する写真を見る── まさにその2011年は、キャリアのターニングポイントでした。8月の代表合宿でザッケローニ監督に呼ばれて、9月に代表デビュー。翌10月にはW杯予選で代表初ゴールも決めて、しかもその試合は2ゴールの活躍でした。
「あの時期は勢いもありましたね。ただ、代表はコンスタントに結果を残さないと生き残れない。僕はそれができなかったから、せっかくブラジルW杯の前年までは代表に呼ばれていたのに、最終的にW杯出場を逃したんだと思います。
あの頃の自分には覚悟や努力が足りなかった。もったいないことをしたと感じています。
結局、甲府時代は自分自身に勢いもあったし、もっと上を目指したいという気持ちはあったんですけど、これだけゴールを決めているんだから筋トレをしなくても大丈夫だろうとか、自分のなかにまだ甘えがあったんだと思います。そういう小さな積み重ねが、自分の成長を止めてしまったんでしょうね」
── やはりW杯には出たかったですか?
「当然です。誰だってW杯には出たいと思いますよ。でも、なんとなく自分はメンバーから外れるだろうなっていう予感はありました。
あの頃、チームはボールをつないで最後まで崩しきるサッカーを目指すようになっていましたし、オランダとベルギーとの親善試合の時に(2013年11月)、当時Jリーグで活躍していた大迫(勇也)選手や柿谷(曜一朗)選手が活躍していたのを見て、きっとザッケローニ監督は足もとの技術が高い彼らのほうを選ぶだろうなって。
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