水を運ぶ人・鈴木啓太が語るオシムのサッカー。「自分が試合に出る、出ないとは別次元の楽しみがあった」 (4ページ目)

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki
  • photo by AFLO SPORT

「だから、オシムさんが倒れたっていうニュースが入った時は、ビックリしかないですよね。何とも言葉にしようがないというか......、ただただ助かってほしい、というだけでした」

 オシム監督の後任には岡田武史監督が就き、翌2008年から日本代表は再び動き出した。当初は「岡田さんからも信頼してもらっていました」という鈴木も、引き続きメンバーに招集され、8試合に出場した。

 ところが、ほどなくして鈴木自身もまた、病気(扁桃炎)によって戦線離脱を余儀なくされることになるのである。

「10日間ほとんど飲み食いできなくて、体重は10㎏以上落ちました。その後も含めて、結局2カ月くらいピッチを離れていました。

 代表チームから求められて、自分自身もそれに応えたいと思いましたけど、どうしてもコンディションが上がらない。リハビリしながら、そんななかでも代表に呼んでもらう。そのこと自体はすごくありがたかったですけど、心と体が完全に離れてしまっているというか、心ではやりたいのに、体が全然追いつきませんでした」

 心と体のギャップに苦しんだ鈴木は、結局「そこから2、3年は、うまく自分のなかで折り合いをつけられず、悶々としていました」。

 岡田監督からも「まずはコンディションを戻して、自分のチームで頑張ってほしい。そこでまた本来のパフォーマンスが出せるようになったら、力を貸してほしい」という言葉をかけてもらった。

 しかし、その機会はついに訪れることがなかった。

「もちろん、それも含めて自分の能力だと思っていますし、コンディションを整えられなかった自分の問題ではあるものの、その時は全然代表とかっていうレベルではなくて、もうグラウンドに行くことすら嫌になってしまったというか、サッカーをすることに喜びを感じていませんでした」

 2008年5月27日の親善試合、パラグアイ戦。それが鈴木の日本代表として出場した、最後の国際Aマッチとなった。

(つづく)

鈴木啓太(すずき・けいた)
1981年7月8日生まれ。静岡県出身。東海大翔洋高卒業後、2000年に浦和レッズ入り。以来、2015年まで16年間レッズに在籍。長年、主力選手として活躍した。イビチャ・オシム監督率いる日本代表でも奮闘し、同監督が指揮を執った試合すべてに出場。国際Aマッチ出場28試合0得点。引退後は実業家としても日々奔走している。

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