中村憲剛&佐藤寿人が振り返る、思い出のワールドカップ。「岡野!なんでパスしてるんだよ!」 (2ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • photo by AFLO

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佐藤 映像はほとんど見られなかったですよね。

中村 生ではまず見られなかったし、基本はビデオだよね。どこで手に入れたのかは覚えていないけど、擦り切れるくらい見ていたなぁ。

佐藤 僕は小学校の時、クラブの監督がミラノダービーの映像を手に入れて、観賞会を開いてくれたんですよ。そこで初めてミランの試合を見たんです。「オランダトリオ」のカッコよさに衝撃を受けて、それ以来、ミラニスタになりました。

中村 日本人にとってワールドカップがより身近に感じられるようになったのは、1994年のアメリカ大会からなんでしょうね。1993年にJリーグが始まって気運が高まり、その年に「ドーハの悲劇」がありましたから。僕は中1くらいでしたけど、リアルタイムで見ていましたね。

 とりあえずアメリカがめちゃくちゃ暑そうだなということと、決勝でバッジョがPKを外して立ち尽くす姿は、今でも鮮明に覚えています。優勝したブラジルには、あとに日本に来るドゥンガとかジーニョがいたことも身近に感じられるようになった要因だと思います。ただ、当時はやっぱりワールドカップは「見る」もので、「出る」ものでも「目指す」ものでもなかったですね。

---- 将来、ワールドカップに出たいという夢を持っていなかったんですか?

中村 なので、その発想にはまったくと言っていいほどならなかったですよね。日本が出られるとは思ってなかったし、そもそも当時は出る手段さえ知らなかったですから。ようやくドーハの悲劇の時に、日本もあと少しのところまできたんだなと感じましたし、Jリーグができたこともあって、ワールドカップ出場というものが徐々に現実味を帯びていったとは思います。

佐藤 僕はちょうど小6の時にドーハの悲劇があったので、小学校の卒業文集に「ワールドカップに出る」って書きましたね。

中村 俺は中1だったから、もう過ぎてた(笑)。とはいえ現実が見えてたから、中学の卒業文集にも書いてはないけど。

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