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宮本恒靖が驚きと緊張感で「うわっ、出るのか」。初のW杯の舞台は「体にまとわりつくような空気を感じた」 (2ページ目)

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 当時のU-17日本代表のユニフォームの左腕には、ワールドカップ招致のエンブレムが貼りつけられており、つまりは宮本自身、いわばロビー活動の一端を担っていたわけだが、それでも出場へのリアリティが高まることはなかった。

「実際にその大会に出る、という意識はなかったですね。日本はそれまで(ワールドカップに)出たことがなかったので、(開催国になると)だから出られるのかな、というくらいの考えでした」

 はたして1996年5月、韓国との共催というまさかの結末ではあったが、日本でのワールドカップ開催が決定。

 その時には19歳になっていた宮本は、「A代表は、まだそんなに近い存在ではなかった」とはいえ、小さな新聞記事を見つけた頃に比べれば、「少しずつ自分が出られるような存在に近づいてきたんだっていうことは、徐々にですけど、感じつつやっていた」のも確かだった。

 ようやく自身のワールドカップ出場が本格的に現実味を帯びるのは、そのおよそ2年後。1997年ワールドユース選手権を経験し、次なる目標を2000年シドニー五輪出場に定めていた頃である。

「1998年にワールドカップを前にしたA代表が、当時は岡田(武史)監督でしたけど、Jヴィレッジで五輪代表(U-21代表)と一緒に合宿をやったんですよね。その時の五輪代表のメンバーから(中村)俊輔と柳沢(敦)がA代表に呼ばれて、そのぐらいから、なんかちょっと(A代表を)意識できるようになりました」

 そして、日本が初出場したワールドカップフランス大会も終わり、1998年10月、2002年ワールドカップを目指す新生・日本代表の活動がスタート。

 新たに指揮官に就いたフィリップ・トルシエ監督が、メンバーを固定することを嫌い、多くの選手を積極的に競争の場に立たせたことも、宮本ら若い選手たちにとっては追い風になったのかもしれない。

 現在の日本代表を1チーム2カテゴリー(A代表、五輪代表)と表現することがあるが、当時は1チーム3カテゴリー(A代表、五輪代表、ユース代表)で強化が進められていた、と言ってもいいだろう。

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