宇津木瑠美が語るどん底だった「空白の1年」。日本代表選手がなぜサッカーから離れたのか (2ページ目)
襲ってきた虚無感
その後、澤穂希、宮間あやというカリスマ的存在がピッチを去り、一新したなでしこジャパンにイズムを継承できる選手は宇津木のほかに、阪口夢穂、鮫島彩、そして今もなでしこを率いる熊谷紗希、岩渕真奈と人数はどんどん減っていく。そこで、煙たがられたとしても厳しい姿勢を取ることができる宇津木の存在は大きかった。
そこで貫いてきた姿勢を、意地やプライドをかき集めても保つことができないほど、彼女が歩んできた"代表"とフランス大会に臨んだ"代表"では、根本的なところで大きな溝があったということだ。
フランスは、宇津木にとって最初の海外移籍の場であり、自分を1から作り上げた場所。この大会にかける彼女の想いは誰よりも熱かった。ケガ人が続出した不運もあったが、土壇場で選手が入れ替わり、準備不足は否めない状況で挑んだ結果、なでしこジャパンはベスト16に終わる。この大会以降、宇津木がプレーした記録はない。世界中のどのチームを探しても宇津木の名前を見つけることができなくなった。彼女は引き続きアメリカで翌シーズンのオファーを受けながらそれを断っていたのだ。
「代表選手でいる意味、プロ選手でいる意味、日本のサッカーって、なでしこジャパンって何だろう......っていろいろ考えちゃって、このまま答えの見えない状態で、ただそこにプロ選手としていることに自分自身許せるのか----どれだけ考えても答えは見つかりませんでした」
宇津木は一切のサッカーに関することから身を引いた。そうするしかないほど、なでしこジャパンの存在は彼女の中で大きく、誇りであり、成長させる力の源だったのだ。大きな虚無感が彼女を襲っていた。
それもそのはず。常に飛び級でカテゴリー代表を兼任し、代表キャップ数は113を数える。16歳で、なでしこジャパンに初招集されてから彼女のキャリアは、なでしこジャパンとともにあった。スタメンとしてだけでなく、ベンチメンバーの在り方から、チームがひとつになる重要性、世界のトップへ駆け上がる様をど真ん中で体感してきたのだ。時代とともに代表が変遷していくのは当たり前のこと。しかし、このときに感じた隔たりは本質的なものだったからこそ、その苦悩は底を知らなかった。
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