家長昭博と本田圭佑。代表キャップ3と98は何を物語っているのか (2ページ目)
◆家長昭博にとって中村憲剛は「永遠に勝てないライバルだった」
マジョルカでは2年目からはポジションを失い、戦力外のような扱いで、流浪することとなった。その後はKリーグ挑戦、ガンバ大阪復帰、2部マジョルカ再入団と次々に舞台を変えたが、何かが?み合わない。苦しみ続けた。
そのキャリアを振り返ると、実像は苦労人に近い。天才・エリートと見られることに、本人は違和感を抱えていた。
「エリートのように扱われてきたギャップは、めちゃくちゃありましたよ」
拙著『ロスタイムに奇跡を』(角川文庫)のインタビューで、家長はそう告白していた。
「自分はスーパーなプレーはできない。圭佑のようにブレ玉も蹴れへんし。サッカー人生を振り返って、うまくいってへんことのほうが多かったですよ。大分の2年目なんか、何をやってもうまくいかずにへこんでいました。そんな大分時代も、チームには能力が高い選手が多かったから切磋琢磨できたし、怪我をして挫折を経験したからこそ、自分は人として成長できたんかなとも思います。もどかしい時もありましたけど、"絶対に乗り越えられる"という自信だけはありましたね。最後は負けへんで、と」
天才型に見えた家長は、努力型だったということか。才能に溺れず、コツコツと道を切り開いてきた。海外から戻ってそのまま萎(しぼ)むケースは少なくないが、2015年には大宮アルディージャをJ2で優勝させる原動力になった。J1に返り咲いたことで、プレーの質の高さが再評価され、川崎フロンターレから声をかけられた。
そのサッカー人生が集約されたのが、川崎での2018年シーズンだったかもしれない。
家長は攻撃的サッカーを信奉するチームで、無双を見せた。1対1では相手を寄せつけない。好きなようにパスを回す渦となって、敵をひれ伏させる。ここぞという場面ではゴール前に現れ、確実に仕留めた。ボールを蹴るのが楽しそうで、サッカーを謳歌していた。ベストイレブン、そしてリーグMVPにふさわしいスペクタクルなプレーだった。
それは、「天才」と言われた男のひとつの結実に見えた。
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