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内田篤人の陰で。引退表明の小林祐三、代表キャップ0という勲章

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki
  • 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato

連載:「日本代表」という肩書に迫る(5)
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 1998年、日本代表が初めてワールドカップに出場したフランス大会、海外クラブに在籍選手の数は0だった。全員がJリーグに所属。大会後、中田英寿が海を渡った。次の2002年日韓ワールドカップでも、代表メンバーはJリーガーが主力で、「海外組」は4人しかいない。

 それが2020年になると、欧州遠征を戦った代表は全員が海外組で構成されていた。コロナ禍の変則的編成ではあったが、ほぼ実力に沿った選考だった。時代は変化を遂げつつあるのだ。

 しかし、日本代表選手がJリーグで研鑽を積んできたことは変わっていない。Jリーグでプレーすることの意味と代表の存在とは――。

 365。

 それは小林祐三(サガン鳥栖、35歳)がJ1で出場した試合数である。J1での歴代出場試合数で48位。歴戦の勇士と言えるだろう。

2020年シーズンをもってプロサッカー選手引退を表明した小林祐三2020年シーズンをもってプロサッカー選手引退を表明した小林祐三 2004年、柏レイソルに入団した小林は、2年目には先発に名を連ねるようになった。当時は、ディフェンシブなポジションならどこでもできるユーティリティがひとつの売りだったが、センターバックとしての堅牢さとクレバーさが際立った。

 柏で7シーズンを過ごした後、横浜F・マリノスに移籍。右サイドバックに定着すると、主力として堅守を支えながら攻撃の一手にもなった。2013年には天皇杯で優勝し、リーグ優秀選手にも選出された。2017年からは鳥栖に新天地を求め、J1残留に貢献。2020年をもって、プロサッカー選手引退を表明した。

 センターバックとして国際試合を戦うには、高さやパワーが足りなかったが、サイドバックではむしろアドバンテージになった。周りの選手を使ううまさも、サイドではより強みになり、攻守両面で右サイドを支配した。もともとのスピードも非凡で、天職だった。

 歴代Jリーガーでも屈指のディフェンダーと言える小林だが、代表には一度も呼ばれていない。2005年のワールドユース(現行のU―20ワールドカップ)には主力のひとりとして出場。2008年の北京五輪に向けた予選には招集されたものの、本大会メンバーには入らなかった。

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