2020.06.24

三浦泰年はドーハのイラク戦で思った。
マリーシアを知る自分を出せ

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 藤巻剛●撮影 photo by Fujimaki Goh

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第15回
初めての日本代表で経験した「ドーハの悲劇」~ 三浦泰年(2)

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 1993年、アメリカW杯アジア最終予選、日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0のドローで終えた。勝ち点1を獲得し、日本も三浦泰年もまずまずのスタートを切った。


 2戦目のイラン戦も三浦は左サイドバック(SB)でスタメン出場した。

2戦目のイラン戦では悔しい思いをした三浦泰年 photo by Hara Etsuo/Getty Images イランは、日本をよく研究していた。攻撃の軸となるラモス瑠偉を徹底的にマークし、脅威となっていた左サイドの攻撃を封じてきた。三浦は人数を割いて分厚い攻撃を仕掛けてくるイランの対応に追われた。日本は押し返そうとしたがイランに主導権を握られ、前半終了間際、フリーキックから先制点を許してしまった。

 後半、日本は吉田光範に変えて長谷川健太を右サイドに投入し、森保一を左、ラモスを中央、福田正博を右に置いて、4-3-3の攻撃的なシステムに変更した。それでもゴールが遠いと見ると後半29分、オフトは左サイドバックの三浦に代えて中山雅史を投入し、3-4-3にシステムを変更した。

 ここで三浦の仕事は終わり、悔しさを噛み締めながらピッチを去った。

「ゴンと代わった時は、みんなに申し訳ないという思いしかなかったですね。いろんな人が左サイドバックの候補に挙がった中で、自分はその最後として起用された。その責任は重大でした。それに、イランは自分の裏(のスペース)を明らかに狙っていた。攻撃している時は自信があったんですけど、イランのボールになった時は完全に後手に回っていたし、きついなって思っていた。僕が監督だったら三浦泰年は使っていなかったと思います」