思い出すのもイヤだった「ドーハの悲劇」。三浦泰年、27年後の告白 (2ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 藤巻剛●撮影 photo by Fujimaki Goh

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 三浦は、ハンス・オフト率いる日本代表に特別な思い入れを持って応援していた。

 92年に読売クラブから清水に移籍したが、日本代表には弟のカズ(三浦知良)をはじめ、ラモス瑠偉や堀池巧ら両チームから多くの選手が招集され、プレーしていたからだ。

 1次予選を戦っていた頃、三浦は甲状腺の機能亢進症になり、入院生活を送っていたが、代表の試合が気になって仕方なかった。病院のテレビは衛星放送が映らないので、試合中継の日は病院近くのホテルに部屋を取り、応援するほどだった。

「代表の試合は自分の試合以上にドキドキして、勝ち負けにこだわりながら見ていた。その頃は、別に代表に入れなくて悔しいとかはなかったです。選ばれていなくてもチームの一員のつもりで戦う気分でした。だから代表に呼ばれた時は、本当にうれしかった。僕の夢はコレだったんだと実感したし、夢が叶ったんだと思った。『代表でできるだけ多くの試合に出たい、このチームに1日でも長くいたい』と思っていました」

 チームに合流した三浦は、最初の紅白戦で本職であるボランチとしてプレー。だが、10月4日に開催されるアジア・アフリカ選手権前の最後の紅白戦では、左サイドバック(SB)に入っていた。

「(左サイドバックを)やるんだろうなって思っていました。オフトから左サイドバックをやる可能性が高いと言われていたし、カリオカ(ラモス瑠偉)からもそう言われていた。攻撃的なチームの左サイドバックなら読売時代にやっていたので得意だったのですが、国際試合では守備がかなり要求される。これは簡単な役割ではないと思っていました」

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