黄金世代の加地亮が求めたものは、
代表入りでもW杯出場でもなかった (2ページ目)
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「エージェントに『何を考えてんねん』と言われて、その翌年(2000年)にはJ2の大分トリニータに移籍した。
当時、若手育成に定評がある石崎(信弘)さんが、大分の監督だったんですよ。(石崎監督には)めっちゃしごかれたけど、それがよかった。自分は体がまだ弱くて、プロで戦える土台ができていなかったんでね。ここであかんかったら『(プロとして)終わりや』という気持ちでやっていた」
ちょうどその頃、ワールドユースでともに戦った仲間たちは、そのままシドニー五輪出場を目指す代表チームに選出され、高原直泰や稲本潤一をはじめ、加地とポジションを争った酒井友之らは本番の2000年シドニー五輪にも出場し、日本サッカー界のメインストリートを突き進んでいた。
「俺は、五輪とかは考えてへんかったね、その頃は。だから、イナ(稲本)とか酒井ら同世代がシドニー五輪で活躍しても、別になんとも思わへんかった。だいたい俺は、U-20代表で一番ヘタくそやったし、大会に入っても試合に出られるとは思ってへんかった。
そんな状態で五輪のメンバーに入っても、最後は『落ちるやろ』って思っていたからね。だから(当時は)、五輪に出たいとかそういう思いはなく、『自分がこうなりたい』というものを追い求めていた」
加地は当時、どうなりたいと思っていたのか。
「(自らのポジションである)サイドで求められるもん、すべてを得たいと思っていた。得点やアシストに絡む攻撃、個で負けない守備、90分間落ちない体力......そのうえで、戦術理解度が高い選手になりたいと思っていた。だから(当時は)やることがいっぱいありすぎて、代表レベルには『まだまだ到達せえへん』って自覚してやっていた」
加地は大分で2年間プレーしたあと、2002年にFC東京へ完全移籍した。
FC東京でレギュラーの座を確保すると、2002年日韓共催W杯のあとに日本代表の指揮官となったジーコ監督に見出された。2006年ドイツW杯のメンバー入りを果たし、加地は日本代表の不動の右サイドバックへと成長していった。
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