2013.10.28

ラモス瑠偉「あのドーハのメンバーを忘れてほしくない」

  • 渡辺達也●文 text by Watanabe Tatsuya
  • 梁川剛●写真 photo by Yanagawa Go

悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――ラモス瑠偉編


 1993年10月28日、アメリカW杯アジア最終予選の最終戦。日本はイラクにロスタイムに同点ゴールを決められて、本大会出場を逃すことになった。日本代表を牽引していたラモス瑠偉は当時、36歳。20年前の熱い日々を、今、あらためて振り返る。

最高のチームができたのは
オフトの力だった

 オフトジャパンの攻撃の起点となったラモス瑠偉。攻撃のすべてが彼から始まるといっても過言ではなかった。アメリカW杯アジア最終予選、対戦相手はラモスを潰しにきた。執拗なマーク、悪質なファウルを受けながらも「日本をW杯に連れて行く」という強い気持ちで最後まで戦った。

「ドーハの悲劇」を振り返るラモス瑠偉氏。サッカーにかける情熱は今も変わらない――あなたにとって、オフトジャパンとは?
「オフトファミリーのメンバーとして、ドーハに行けたことに感謝しています。自分のサッカー人生の中でも、いろんな意味でプラスになった、素晴らしいチームでした。侍といったら、あのチームじゃないかな。その後、ずっと代表を見ているけど、どんな代表より、あのときは侍が揃っていましたね。技術よりも気持ち、代表の誇りを持っていた。だから国民が応援してくれた。それまで応援してくれた人たちに恩返しするためには、日本をW杯に連れて行くしかないと思っていた」

――W杯に行ける、という自信はあったんですか。
「自信満々だよ。素晴らしいチームだから行けると思ったよ。ダイナスティ杯(92年8月)で優勝して、アジア杯で優勝して(92年10~11月)、みんな自信を持ったし逞(たくま)しくなった。オフトが監督になって1年ちょっと。あの短い期間で……それはオフトの力だよ」

――チームの雰囲気も良かったわけですね。
「最高だった。本当にファミリーになっていました。誰もぶれないで、オフトについていこう。オフトをW杯に連れていこう。みんなが、そういう気持ちになっていた」

――あのころの日本代表では、試合中、ラモスさんがいろいろなところに顔を出さなければいけなかった。「自分がやらなきゃ」という気持ちが強かったんじゃないでですか。
「間違いないです。みんなに安心感を持たせるために、いろんなところでプレイに絡んだ。年齢が年齢だけに結構、辛かったけど、ただ、みんなのために、代表のために。それはオフトに教えてもらったから。森保(一)に負担がかからないように、俺と吉田(光範)でバランスをとっていたし、俺は左サイドだったから、勝矢(寿延)やカズ(三浦知良)の近くに行ったり。大変だったけど、それは宿命だからね。チームのためにやらなきゃいけないことだから」

――最終予選では、どこの国からも狙われていたでしょう。アイツを潰せと。
「ある程度、俺とカズを抑えれば何とかなると思ったんだろうね。俺からボールが出てくるからしょうがないけど。イラン戦で最初に受けたタックルなんて、普通なら退場だよ。北朝鮮も韓国も、みんなそうだった。最後のイラクなんか、若い選手をマンツーマンで付けてきた。やりづらかったよ」