ラモス瑠偉「あのドーハのメンバーを忘れてほしくない」 (2ページ目)
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――W杯に行ける、という自信はあったんですか。
「自信満々だよ。素晴らしいチームだから行けると思ったよ。ダイナスティ杯(92年8月)で優勝して、アジア杯で優勝して(92年10~11月)、みんな自信を持ったし逞(たくま)しくなった。オフトが監督になって1年ちょっと。あの短い期間で......それはオフトの力だよ」
――チームの雰囲気も良かったわけですね。
「最高だった。本当にファミリーになっていました。誰もぶれないで、オフトについていこう。オフトをW杯に連れていこう。みんなが、そういう気持ちになっていた」
――あのころの日本代表では、試合中、ラモスさんがいろいろなところに顔を出さなければいけなかった。「自分がやらなきゃ」という気持ちが強かったんじゃないでですか。
「間違いないです。みんなに安心感を持たせるために、いろんなところでプレイに絡んだ。年齢が年齢だけに結構、辛かったけど、ただ、みんなのために、代表のために。それはオフトに教えてもらったから。森保(一)に負担がかからないように、俺と吉田(光範)でバランスをとっていたし、俺は左サイドだったから、勝矢(寿延)やカズ(三浦知良)の近くに行ったり。大変だったけど、それは宿命だからね。チームのためにやらなきゃいけないことだから」
――最終予選では、どこの国からも狙われていたでしょう。アイツを潰せと。
「ある程度、俺とカズを抑えれば何とかなると思ったんだろうね。俺からボールが出てくるからしょうがないけど。イラン戦で最初に受けたタックルなんて、普通なら退場だよ。北朝鮮も韓国も、みんなそうだった。最後のイラクなんか、若い選手をマンツーマンで付けてきた。やりづらかったよ」
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