都並敏史が語るドーハの悲劇。
「オフトは僕とだけ握手をしなかった」

  • 渡辺達也●文 text by Watanabe Tatsuya
  • photo by AFLO

悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――都並敏史

アメリカW杯アジア最終予選(1993年10月/カタール・ドーハ)に挑んだ日本代表のメンバーの中に、左足を骨折していた選手がいた。左サイドバックの都並敏史である。しかし彼は、大会中、そんな素振りを一切見せなかった。激痛に苦しめられながらも、全力で練習に励み、試合に出場する準備を常に整えていた。あれから20年経った今、その苦難の日々を振り返る――。

レントゲン写真を見たとき
ドーハには行かないと決断していた

 都並敏史(現解説者)は、オフトジャパン不動の左サイドバックだった。そして、都並と、MFラモス瑠偉(現ビーチサッカー日本代表監督)、FWカズ(三浦知良/現横浜FC)というヴェルディ川崎のメンバーで構成された左サイドからの攻撃が、オフトジャパン最大の武器だった。

 だが、大一番となるアメリカW杯アジア最終予選で、都並がピッチに立つことは一度もなかった。

左足首を骨折していながら、淡々と練習をこなしていた都並敏史。左足首を骨折していながら、淡々と練習をこなしていた都並敏史。
 問題が発生したのは、1993年Jリーグファーストステージ第3節のサンフレッチェ広島戦だった。都並は相手ボールを奪おうと、無理な体勢でタックルにいった。その際、左足首を痛めたのだ。

「そこで、たぶん(骨に)ひびは入っていたと思うんですけど、無理してそのままプレイして、その試合後もずっとリーグ戦に出場していた。それで、練習中にまた痛めて、7月くらいかな、骨が折れているってわかったのは。今思えば、最初に痛めたときにしっかり治療しておけば、(最終予選にも)間に合ったと思うんだけど......。でも当時は、治療に専念するという、負傷した選手が取るべき行動とか、ケガへの向き合い方とかを誤って、気持ちで(ケガを)治すというか、"根性論"が先走ってしまった。そこは、自分が甘かった。プロとしての意識が欠けていた。単に(最終予選に)出たいからって、焦って、無理をして、余計に悪化させてしまった」

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