【長嶋茂雄が見たかった。】V9巨人の同僚が語る長嶋茂雄 そのすごさは「期待に応えること」 (2ページ目)
【捕れる打球は全力で捕りにいく】
長嶋、王の前の二番打者を務めることの多かった高田繁さん。「『後ろにつなげれば絶対に打ってくれる』と思っていた」
1945(昭和20)年7月生まれの高田繁が巨人からドラフト1位指名されたのは、1967(昭和42)年ドラフト会議だった。当時のことを、高田はこう振り返る。
「僕が入団する前に巨人はリーグ3連覇、3年連続日本一を達成していた。V4を目指すチームに入ることになったんだよね。そこから1973(昭和48)年までリーグ9連覇、9年連続日本一になった。
僕が入団した頃が一番、戦力的に充実していた時期じゃないかな? ファーストには28歳の王貞治さんが、サードに32歳の長嶋茂雄さんがいて、ふたりがクリーンアップを組んでいた。監督は川上哲治さん、チームとして完成していたよね」
高田が入団した時、ONのふたりはプロ野球を代表する看板選手になっていた。
「長嶋さんは1936(昭和11)年2月生まれだから、僕とは学年が10違う。僕が巨人に入った頃、長嶋さんは一番脂が乗りきっていたかもしれない。チームの中では年齢的に上のほうだったけど、ベテランというイメージはなくて、動きははつらつとしていたね。走塁のスピードがあったし、守備でもパパパッという切れのある動きをしていて、年齢的なことをまったく感じさせなかった」
プロ1年目の1968(昭和43)年からレフトのレギュラーポジションをつかんだ高田の目に、サードを守る長嶋の守備はどう映ったのか。
「とにかくスピードがあって、守備範囲も広かった。たたたっと投げる姿がカッコよくて、長嶋さんの後ろを守りながらほれぼれしてたね。見られることを相当に意識してやっていたんだろうと思う。あんな動きはほかの選手にはできない。昔の強打者は『打てばいいんだろう』という感じであまり守備に熱心と言えない人も多かったけど、長嶋さんはそうじゃなかったね。打つだけじゃなくて、守りも走りも素晴らしいスーパースターだった」
プロ1年目に打率.301、9本塁打、23盗塁を記録した高田は、V9という偉業を成し遂げるチームに欠かせない存在になった。
「もちろん、長嶋さんと王さんという、走攻守が揃ったふたりのスーパースターがいたから達成されたことは間違いないけど、9年連続日本一なんてことは、ひとりやふたりの力ではできない。長嶋さんがいて王さんがいて、ほかの選手たちがいて、そして監督の川上さんの存在が大きかった。もし、そのうちの誰かひとりでも欠けていたら、絶対に達成できなかったと思うよ」
小技もうまく、勝負強い高田は、ONの前の一、二番、時には彼らのあとを打つこともあった。
「前を打つ時はいつも『後ろにつなげれば絶対に打ってくれる』と思っていたね。これまで数えきれないくらい『長嶋さんのすごさは何?』と聞かれてきたけど、『期待に応えること』だと思う。ファンが『長嶋、頼むぞ』、味方が『一本打ってほしい』という場面で、必ずと言っていいほど打ってきた」
王と長嶋のところでチャンスをつくることが、V9時代の巨人の一番、二番打者の仕事だった。
「一番打者の柴田勲さんが塁に出れば、僕がバントや進塁打で二塁に送って『あとはお願いします』という感じだったから、二番打者としては楽だった。王さん、長嶋さんのふたりのうち、どちらかは必ず打ってくれたという印象が残っている。続けて打ち取られたことはなかったんじゃないかと思うくらいだよ」
ONの前に打席に立つことのプレッシャーもあったはずだが、高田はそれを感じなかった。
「よく『二番打者は大変なんでしょう』と言われたけど、そんなことはまったくない。チャンスをつくれば仕事は終わり。王さんと長嶋さんのおかげで、給料をもらっていたようなもんだよ、本当に(笑)。
繰り返しになるけど、あのふたりがいなければV9なんてできない。あれほどの技術、成績、人格も兼ね備えた強打者ふたりが並ぶことなんて、これから先もないだろうね。チームメイトはもちろんのこと、他球団の選手にも尊敬されるスーパースターだったよ」
著者プロフィール
元永知宏 (もとなが・ともひろ)
1968年、愛媛県生まれ。 立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。 大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。著書に『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)、『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(集英社)など多数。2018年から愛媛新聞社が発行する愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(エッジ)の創刊編集長
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