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日本好きだったアニマル・レスリーは、引退後も帰国せずにタレント活動 松永浩美は「やめたあとのほうが充実感はあったみたい」 (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

――松永さんはアニマルさんのタレント活動を後押しした?

松永 引退後も日本に残りたいという話は聞いていたので、「テレビ番組などに出られるチャンスがあればいいね」という話はしていました。ビートたけしさんの番組に出られたこともそうですし、俳優としてアメリカの映画にも出演したり、結果的には大成功でした。野球をやめたあとのほうが、充実感はあったみたいですよ(笑)。

――阪急に在籍していたのは2年ですが、早く引退したことが結果的にはよかった?

松永 インパクトがあるパフォーマンスで有名になりましたし、2年目はバッターが球筋に慣れたこともあって打たれていましたから、スパっとやめたことは正解だったかもしれません。逆に現役にしがみついて3年も4年もやっていたら、タレントとしての値打ちが下がっていたかもしれませんしね。実際に、彼から引退することを告げられた時も、「なんでやめるの?」とは思いませんでしたから。

――アニマルさんは2013年に腎不全で亡くなられましたが、54歳と若かったですね。

松永 ぺぺと仲のいい方から訃報を聞いたのですが、早かったですよね。仲間内で「ぺぺは今度、いつ日本に来るのかな」という話をしていた時だったんです。

 ひと言で言うと、"風雲児"という感じの人間でしたね。ただ、周りを笑顔にする"楽しい風雲児"。決して人を嫌な気分にはしなかったですし、一緒に食事に行った時も、次にまた行くのが楽しみになる人間でした。雨の日には私の車にぺぺを乗せて、西宮球場から西宮第二球場まで行ったりもしていましたし、今でもいろいろなことを思い出しますね。

【プロフィール】

松永浩美(まつなが・ひろみ)

1960年9月27日生まれ、福岡県出身。高校2年時に中退し、1978年に練習生として阪急に入団。1981年に1軍初出場を果たすと、俊足のスイッチヒッターとして活躍した。その後、FA制度の導入を提案し、阪神時代の1993年に自ら日本球界初のFA移籍第1号となってダイエーに移籍。1997年に退団するまで、現役生活で盗塁王1回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回などさまざまなタイトルを手にした。メジャーリーグへの挑戦を経て1998年に現役引退。引退後は、小中学生を中心とした野球塾を設立し、BCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスでもコーチを務めた。2019年にはYouTubeチャンネルも開設するなど活躍の場を広げている。

◆松永浩美さんのYouTubeチャンネル「松永浩美チャンネル」

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