古田敦也全盛期の牙城を崩した西山秀二 食券提供の南海から高級車が並ぶ広島へトレードで「これがプロ野球や!」と喜んだ (2ページ目)
── 当時捕手のライバルは、南海が岩木哲さん、吉田博之さん、香川伸行さん、広島が達川光男さん、山中潔さん、植田幸弘さんでした。
西山 当時、ヒジを痛めていたのと、まあまあ足が速かったこともあって、南海の二軍では「1番・ショート」で試合に出ていました。それで移籍後しばらくしてから、「捕手に戻らないか」と打診されました。その時に上宮の大先輩で、当時阪神のコーチだった一枝修平さんに相談したところ、「捕手はなかなかやれないポジションだよ」とアドバイスされ、キャッチャーでやっていこうと決心しました。
── プロ野球選手として自信めいたものをつかんだのはいつころですか?
西山 プロ6年目、移籍5年目の1991年、初めて優勝を経験しました。僕は3番手捕手でベンチ入りし、左投手に強かったので代打や、たまにスタメン出場でもさせてもらいました。西武との日本シリーズでも、第1戦で「6番・ライト」、第5戦で「6番・サード」でスタメン出場しました。でも無我夢中で、自信がついたとか、そういう感覚はなかったです。
【捕手の礎を築いてくれた人物】
── 達川さんからレギュラーの座を奪ったきっかけは?
西山 92年に「捕手はしんどいですから、三塁かライトでも構いません」と首脳陣に言ったのですが、開幕戦で達川さんがケガをして、急遽、マスクを被ることになりました。結局、79試合に出場したのですが、その年限りで達川さんは現役を引退されました。翌年は110試合ほぼ捕手で出場し、ようやくレギュラーの座をつかめた感じです。
── 捕手のテクニックやリードは、達川さんを見て学んだのですか。
西山 それもありますが、南海時代の柴田猛二軍監督が捕手出身だったので、"リードのイロハ"を教わりました。今でも覚えているのが、「ヒットで出た走者を大事にする監督と、四球で出た走者を大事にする監督に分かれている。前者は、ヒットは続かないものだと考えているからサインを出して動いてくる。逆に後者は、四球は得点につながると考えているからサインは出さずにじっとしている」という話です。監督によってタイプが分かれるので、それもリードに生かしました。
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