江川卓の大学時代を鹿取義隆が回想 百戦錬磨の名将も認めた「ピッチャーで1億、バッターで1億」の身体能力 (3ページ目)
【万全じゃなくても誰も気づかない】
法政時代の江川に関して言えば、大学2年秋の明治戦の前に肩を痛め、急遽先発を回避したことがあった。江川曰く、その時に痛めた肩が完全には治らず、以後100%の状態に戻らなかったという。そのことについて、鹿取はどう感じていたのか。
「江川さんのなかで100%じゃなかったとしても、周りは誰も気づかないですよ。もともと、ランナーが出るまでは75から80くらいで投げていましたが、それでもなかなか打てないわけですよ。それで得点圏にランナーが進むとギアを上げていたわけですが、そのさじ加減というのは江川さんにしかわからない。見ているほうは、いつもの江川さんとしか思っていない。『あれで壊していたの?』って感じですよ」
そして鹿取はこう続けた。
「たとえば、ほかの大学の選手がケガをした、肩を痛めているらしいという情報は一応入ってくるんですけど、江川さんに関してはまったく入ってこなかった。実際に故障していたとしても、ボールを見たら『本当? いや、ウソだろう。あれだけ投げているし、そんなことないよ』って思っていたはずです。とにかく、万全じゃなくてもとんでもないボールを投げていました」
表向きは肩甲骨周辺の筋肉痛と発表したが、実際は剥離骨折だった。ただ、それが致命傷になったのかどうかは江川にしかわからない。現に、大学3年から超人的な活躍を見せ、プロ入り後も2年目に16勝、3年目に20勝と2年連続最多勝に輝き、この頃の映像を見ると異常なまでのボールの伸びをしている。
本来なら、もっとすごい球を投げられていたのだろうか。江川のことを語ると、どうしても"たられば"の話が出てしまう。それだけ無限の可能性を秘めていたということだろう。
その後、江川は1年の浪人を経て、"空白の一日"というドラフト史に残る前代未聞の出来事の末に巨人入り。同年、鹿取もドラフト外で巨人入団を果たしたのだった。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
著者プロフィール
松永多佳倫 (まつなが・たかりん)
1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。
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