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ヤクルトはなぜ2年連続5位と低迷したのか? 髙津臣吾監督「連覇の時から、このままだったら大変なことになるとずっと思っていた」 (4ページ目)

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya

── 今年は青木選手が引退。あらためてチームにとってどのような存在でしたか。

髙津 ノリの背中を見て、そこを追いかけない手はないですよね。非常に大きな教科書がそこにあったわけですから。マネ似してもできない部分はたくさんあるけど、追いかける。教科書のページをめくることは、ほかの球団の選手にはできないことです。チームにものすごく大きなものを残してくれたのがノリでした。

 来年は「ノリみたいに」とか、「青木の背中を追え」とは絶対に言わないですけど、どこか頭の片隅にそれを描いてプレーしてほしいと思っています。技術はもちろんのこと、今の野球界に薄れている"精神力"だったり、"根性"だったり、とにかく忍耐力がずば抜けていました。そういうのが身についていかないと一流にはなれないし、そういう選手がチームを引っ張り、いい成績をおさめていくと思っているので、そこはぜひ見習ってほしいところです」

つづく>>


髙津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日、広島県生まれ。広島工業高から亜細亜大を経て、1990年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に、ヤクルト黄金時代のクローザーとして活躍。2003年には通算260セーブ、289セーブポイントの日本記録(当時)を達成。04年、シカゴ・ホワイトソックスへ移籍し、メジャーでもクローザーとして活躍。その後、韓国、台湾でもプレー。11年には独立リーグの新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼任監督として、チームを日本一へと導いた。同年、現役を引退。14年に古巣であるヤクルトの一軍投手コーチに就任し、17年から二軍監督を務めた。その後、20年に一軍監督に就任し、21年、22年とセ・リーグ連覇。21年には日本一に輝いた

著者プロフィール

  • 島村誠也

    島村誠也 (しまむら・せいや)

    1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。

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