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栗山英樹が痛感した変わりゆく野球界 「もうデータではなく、サイエンスの時代になっている」

  • 元永知宏●文 text by Motonaga Tomohiro

──栗山英樹が北海道日本ハムファイターズの指揮官の座から退き、退任会見を行なったのが2021年11月1日。その1カ月後、第5回WBCに挑む日本代表の監督に就任することが発表された。しかし、まだコロナ禍にあり、思うように強化は進まなかった(2022年3月に予定された強化試合は中止)。2022年11月の強化試合で、侍ジャパンの監督として初めての采配を振った。栗山が当時を振り返る。

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新刊書籍『栗山英樹の思考 若者たちを世界一に導いた名監督の言葉』(ぴあ刊)より本文を抜粋してお届けします。

2023年に開催された第5回WBCを制し、選手たちから胴上げされる栗山英樹監督 photo by Getty images2023年に開催された第5回WBCを制し、選手たちから胴上げされる栗山英樹監督 photo by Getty imagesこの記事に関連する写真を見る

【一度は断った侍ジャパン監督】

 ファイターズの監督を退いてすぐに、侍ジャパンの監督就任のオファーをいただきました。ファイターズの監督のあとに何をするか、当時はあまり具体的には考えていなかったように思います。先のことを考えられる状態ではなかったですね。

 前任の監督から2位で受け取ったバトンを次に渡すのに、「この状態では申し訳ない」「ある程度、勝てるチーム状態にしないと」という思いばかりがあって。その頃にあったのは、自分自身に対するいら立ち、ふがいなさ......悔しさよりもそれらのほうが強かった。

 退任することに対しては納得していたんですが、「こんなふうに負け続けてやめないといけないのか」「自分の責任を果たせなかった」という悔しい思いがありました。「今回の経験を何かでうまく生かさないと」とも思っていた。

 しかし、退任から1年後くらいにオファーをもらっていたら、受けられなかったかもしれません。ブランクができていたら、この悔しさが薄まっていたかもしれない。監督をやめて間がなかったから、決断できたように思います。

 一緒に戦った選手たちにも言われました。「侍ジャパンの監督なんていうしんどい仕事をよく引き受けましたよね」と。冷静に考えると、自分のなかで消化できていない思い、悔しさがその原動力になったのだと思います。

 ただ、はじめは「侍ジャパンの監督は私にはできません」とお断りしました。「私は適任ではないのでは」という思いからです。

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著者プロフィール

  • 元永知宏

    元永知宏 (もとなが・ともひろ)

    1968年、愛媛県生まれ。 立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。 大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。著書に『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)、『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(集英社)など多数。2018年から愛媛新聞社が発行する愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(エッジ)の創刊編集長

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