与田剛は落合博満の言葉に救われた なぜプロ1年目から抑えの座をまっとうできたのか? (4ページ目)
準備を何より大事にした与田は、4勝を挙げてリーグ最多の31セーブをマーク。最優秀救援投手賞を受賞し、新人王にも選出された。8月には当時の日本人最速157キロを出してスピードでも注目されたが、2年目はケガの影響で低迷。92年に23セーブを挙げるも、翌年以降は活躍できず、96年にロッテ、98年から日本ハム、2000年は阪神へと移籍して現役を引退した。
「11年間もプロ野球界にお世話になって感謝していますが、僕は1年目と3年目以外、ケガでまともなシーズンを送れなかったわけです。だから、何でこういうケガをするのか、とか、どういうふうに過ごしていったらいいのか。トレーニング方法も含めて、楽天のコーチの時に選手たちに伝えさせてもらいました」
16年から3年間、楽天の投手コーチを務めた与田は、19年から古巣・中日の監督に就任。投手力と守備力の再整備に着手し、20年にはチームを8年ぶりのAクラスとなる3位に引き上げた。先発陣は大野雄大が引っ張り、抑えのマルティネスが中心のリリーフ陣では、祖父江大輔、福敬登がともに最優秀中継ぎ投手賞を受賞。勝ちバターンの確立がチーム浮上に直結していた。
「主役は選手ですから。勝ちバターンも僕の采配じゃなくて、ピッチャーの頑張りと踏ん張りで確立したわけで。ただ、僕がコーチ、監督の時に抑え投手に言っていたのは『とにかく抑えは勝てばいい』ということ。リードした場面で出ていった時は、満塁にしようが、フォアボールを出そうが、『何だあいつ今日、調子悪いな』って言われようが、勝てばいい。
楽天の時は松井裕樹(現・パドレス)にもよく言ってましたよ。『まっちゃん、あと2つフォアボール出しても満塁じゃん。オッケーオッケー。その代わり全部抑えておいで』『マジすか〜』『マジだよ』って。しっかり準備して、次で打ち取る自信があるなら、歩かせていい。2点差あれば、ホームラン1本はいい。あれもダメ、これもダメって言ってたら何もできませんからね」
(文中敬称略)
与田剛(よだ・つよし)/1965年12月4日、千葉県君津市出身。木更津総合高から亜細亜大、NTT東京を経て、89年のドラフトで中日から1位指名を受け入団。1年目から150キロを超える剛速球を武器に31セーブを挙げ、新人王と最優秀救援投手賞に輝く。96年6月にトレードでロッテに移籍し、直後にメジャーリーグ2Aのメンフィスチックスに野球留学。97年オフにロッテを自由契約となり、日本ハムにテスト入団。99年10月、1620日ぶりに一軍のマウンドに立ったが、オフに自由契約。2000年、野村克也監督のもと阪神にテスト入団するも、同年秋に現役を引退。引退後は解説者として活躍する傍ら、09年、13年はWBC日本代表コーチを務めた。16年に楽天の一軍投手コーチに就任し、19年から3年間、中日の監督を務めた
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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