【引退試合】T−岡田が振り返る栄光と苦悩の19年 「どうやったら結果を残せるか、バッティングを考えることに疲れた」 (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

プロ1年目、フレッシュオールスターで本塁打を放ち表彰されるT−岡田 photo by Tanigami Shiroプロ1年目、フレッシュオールスターで本塁打を放ち表彰されるT−岡田 photo by Tanigami Shiroこの記事に関連する写真を見る あの2打席のなかで、"決断"に至った何かがあったのではないか──こちらの勝手な推測を告げると、「あそこで決めたわけではなかったんですけど......」と言って、こう続けた。

「あの試合を最後に出場がなかったのは、次の日にふくらはぎを痛めてしまったからなんです。今もまだ完治はしてないんですけど、それで試合に出なくなったのはありました」

 もし、ふくらはぎの痛みがなければ、その後も試合に出ていたということなのだろうか。

「もう少し出ていたと思います。ただあの試合の時点で、自分のなかでは(引退を)ほぼ決めていました。まだ球団には言っていませんでしたが、いつ伝えようかという感じで。8月になったばかりの頃は、『ここからもう一回』とあきらめてなかったのですが......」

 わずかな時間のなかで、決断のタイミングがあったのだろう。

 ここであらためて、先述した阪神の第2打席について振り返ってもらった。「とらえた!」と思った打球がファウル、あるいは凡打になる。そうしたわずかなズレも、決断したひとつの理由だったのだろうか。

「ここ何年かはずっとその繰り返しでした。目ではしっかりとらえているのに、スイングするととらえきれない。ほんとにその繰り返し。『なんでや!』と、いつも考えてきましたが答えが出ない。ピッチャーの球を速く感じるようになったことはないですし、練習ではいい打ち方ができるのに試合になるとできなくなる。その差がなんなのか、最後までわからなかったですね」

 岡田同様に、リーグ4連覇を目指したチームももがき続けた。勝てない最大の理由は得点力不足だったが、そんな状況のなか、チームの力になれないという苦悩の日々。

「だから余計に......っていうのはありました。この状況で力になれない葛藤は、常にありましたね。でも、それもすべて自分が打てなかったから。結果がすべての世界で、結果を出せなかったんです」

 ファームでの成績は37試合の出場で81打数10安打(打率.123)、1本塁打、2打点。決断の秋を待たず、岡田は自らの判断で19年の現役生活にピリオドを打った。

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著者プロフィール

  • 谷上史朗

    谷上史朗 (たにがみ・しろう)

    1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。

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