清原和博、小久保裕紀、ローズ、ペタジーニ...仁志敏久が振り返る巨人軍超重量打線「来年は誰が来るんだ?」「さすがに獲りすぎ」 (3ページ目)
── 仁志さんは配球を読んで打つタイプでしたか。
仁志 打席に入る前はいろいろ考えるのですが、いざ打席に入るとそれが飛んでしまう。僕以外にもそういう打者は多いと思います。ただ「この球種のあとはこの球がくる」といった具合に、捕手のクセや傾向は気にしていましたね。
【シーズン259発打線のリードオフマン】
── 2004年の巨人打線はタフィ・ローズ選手、高橋由伸選手、小久保裕紀選手、ロベルト・ペタジーニ選手、清原和博選手、阿部慎之助選手といった長距離砲が揃い、シーズン259本塁打の日本記録を樹立しました。リードオフマン(1番)を務めた仁志さんも28本塁打を放ちました。
仁志 2ケタ本塁打を打つ選手が多くいて、ある程度打たないと置いていかれてしまう......そんなことを思っていました。2000年から2年連続20本塁打のあと、2年連続8本塁打でした。だから2004年は最後の賭けのつもりで、軸足(右足)に体重を残して、逆方向に打つぐらいボールを呼び込むことを意識したら28本打てたんです。
── FAやトレードで大砲を獲得することを「生え抜き」としてはどう思っていましたか?
仁志 毎年のように誰か加わるので「来年は誰が来るんだ?」って感じでしたが、自分はなんとも思わなかったですね。ただあの時は、ローズがいて、ペタジーニがいて、さすがに獲りすぎですよね。「守るところがないだろう」って(笑)。
── 2004年は「259発打線」でも優勝はできませんでした。
仁志 長いプロ野球の歴史で、投手力の弱いチームが優勝したことはあまり例がありません。1985年の阪神ようにチーム防御率4点台なのに、打線がカバーして勝つというのはなかなか難しいですよね。
仁志敏久(にし・としひさ)/1971年10月4日生まれ、茨城県出身。常総学院から早稲田大、日本生命を経て95年のドラフトで巨人から2位指名(逆指名)を受け入団。1年目から114試合に出場し、打率.270、7本塁打、24打点の成績を残しセ・リーグ新人王に輝いた。2004年には28本塁打を放つなど、強打のリードオフマンとして活躍。また名二塁手としても名を馳せ、99年から4年連続ゴールデングラブ賞を獲得。07年に横浜(現・DeNA)に移籍し、10年には米独立リーグでプレーしたが、故障などもあり同年6月に現役引退。その後は野球解説者としての活動の傍ら、侍JAPAN U−12監督などを歴任。21年から3年間、DeNAの二軍監督を務めた
フォトギャラリーを見る
3 / 3