江夏豊はリリーフとしての調整法を確立 「優勝請負人」となり、初のセ・パ両リーグでMVPに輝いた
セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
江夏豊が振り返るリリーフ専任という前例なき挑戦(後編)
前編:江夏豊はなぜ野村克也の提案を受け入れ抑え転向を決断したのかはこちら>>
阪神から南海(現・ソフトバンク)に移籍して2年目の1977年5月。江夏豊は監督の野村克也に説得され、抑えに転向することになった。左腕の故障の影響で長いイニングを投げられなくなり、やむなく先発を断念した形。18歳でプロ入りして11年目、29歳の時だった。
抑えとしての地位を確立し「優勝請負人」として活躍した江夏豊 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【リリーフの調整法がわからない】
それまで、南海の抑えは佐藤道郎が務めていた。江夏とは違い、佐藤は1年目の70年からほぼリリーフ専任。先発は年に数試合で、セーブ制度が導入された74年にパ・リーグ初代セーブ王。76年も同タイトルを獲得していた。年齢がひとつ上で同世代の佐藤とは気が合い、「ミチ」と呼ぶ間柄だったが、その実績が気がかりだったという。当時の状況を江夏に聞く。
「ミチは長年、抑えでやってきたからね。彼が築いた分野を荒らしてしまうんじゃないか、と気になっていた。でもミチは、自分に対していっさい嫌な態度を見せなかった。あとで野村監督に聞いたら、『おまえは放るのが楽しくてしょうがない男だから先発にする』と言って説得したらしい。たしかに、自分が間近に見た投手のなかで、ミチほど投げることが好きな男はいなかったね」
佐藤自身、江夏の抑え転向を快く受け入れた。「先発したくてしょうがなかった。監督に『江夏を抑えにする』って言われた時、もう大喜び」と証言したとおり。理由は「セーブのタイトルを獲ってもそんなに給料が上がらない」──。まだそういう時代だったからこそ、逆に江夏はなかなか転向を決断できなかった。しかも決断したはいいが、晴れやかに前に進む感覚はなかった。
「リリーフとしての調整、コンディションづくり。どうしたらいいか、さっぱりわからん。前例がなくて、教科書がないんだから。経験者としてミチはいたけれど、彼の場合は年に何度か先発で投げていて、完全にリリーフ専門じゃなかったしね。そこで監督に『調整法がわからない』と言うと、『好きなようにしろ。自分でつくれ』だよ。それからがどれだけ苦しかったか」
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著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など