江川卓のボールを捕手として初めて受けた中尾孝義は「あれっ⁉︎ こんなに遅くなっている」と衝撃 (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 だが、合宿に参加した7人のうち慶應に合格したのはふたりのみで、江川は法政大、中尾は一浪の末に専修大へと進学する。東京六大学リーグと東都大学リーグに分かれたふたりは、オープン戦、もしくは大学選手権でしか対戦することはなかったが、大学時代に実現することはなかった。

 それでも中尾が大学3年時、日米大学野球選手の日本代表に選出され、4年生の江川も当然のように選ばれ、ふたりは初めてバッテリーを組むことになる。中尾は第1戦から第7戦まで先発マスクを被り、第6戦以外フル出場した。江川は第1、3、7戦と先発。中尾は当時の心境を吐露した。

「うれしかったです。こんなすごいピッチャーの球を受けられるっていうのが、まず一番だった。でも実際に受けてみると、『あれっ?? こんなに遅くなっている』っていう印象でした。高校時のダイナミックさはちょっとなくなっていましたね」

 高校時代に対戦した時とのギャップに戸惑いながらも、江川の球を受けられる喜びはやはり格別だった。

 やがて中尾は4年となり、アマチュアナンバーワン捕手の触れ込みで、多くの球団から誘いがあったが、社会人野球のプリンスホテルへと進む。

「専修大学の校友会のOBの方からプリンスホテルの話が来ました。その方が、当時西武グループの総帥である堤義明さんとすごく仲がよく、『プリンスが来年から野球部を新しくつくるからどうだ?』って言われて、トントン拍子に決まった。プロ志望でしたが、体も小さく、自信がなかったので社会人に進みました。

 プリンスに入る時も、中日が一番熱心に誘ってくれました。今だから言えますけど、大学4年時に中日関係者から『一度遊びに来い』と言われて名古屋に行くと、当時監督の中利夫さん、スカウト部長と会うことになって、『1位指名するから来ないか』って直で言われました。親も含めて周りはみんな『プロに行け』って言っていたんですが......」

 強気のリードとは裏腹に性格的に慎重派の中尾は、プロでやっていく自信が持てなかったためプリンスホテルへと進み、2年後に中日からドラフト1位を受け、相思相愛で入団することになる。

(文中敬称略)

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江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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