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篠塚和典が振り返る、1番・松本匡史がいたからバッターボックスで「楽しめた」こと

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(6)

松本匡史 後編

(中編:「青い稲妻」松本匡史のすごさ ホーナーの本塁打を「アシスト」した逸話も>>)

 篠塚和典氏が語る、かつて巨人の1番として活躍した"青い稲妻"松本匡史氏のエピソードの後編。篠塚氏にとっての松本氏という存在、1980年代のメンバーとの野球が楽しめた理由などを聞いた。

青い手袋とメガネがトレードマークだった松本 photo by Kyodo News青い手袋とメガネがトレードマークだった松本 photo by Kyodo News

【33歳で引退後、コーチに】

――先ほど(中編では)、松本さんは「ボールをよく見るタイプの1番バッター」という話が出ましたが、その後に控えるバッターたちが相手ピッチャーの特徴や調子などを見極める上でも、ありがたい存在ですね。

篠塚和典(以下:篠塚) 特に、初めて対戦するピッチャーはどういうボールを投げるのかわかりませんから、松本さんがバッターボックスに立って感じたことを、後ろのバッターに伝えていました。やはりデータと、実際に対戦して感じることは違う場合もありますから。

 ただ、僕が2番を打っていた時は、松本さんがアウトになってベンチに帰る場合、僕はバッターボックスに向かうので相手のピッチャーに関しての話が聞けません。なので、2番の時は自分で体感するしかなかったんですね(笑)。

――バッティングに関しての話をしたことはありましたか? この連載で、ウォーレン・クロマティさんや中畑清さんが、篠塚さんの逆方向に打つバッティングを参考にしたという話も聞きましたが。

篠塚 松本さんとは、バッティングについて話すことはなかったです。いつも他愛もない話ばかりでした。もしかすると、僕のバッティング練習を見て参考にしてくれた、といったことはあったのかもしれませんね。

――松本さんは1987年に33歳で引退しました。もっとできたと思いますか?

篠塚 体力的には問題なかったと思います。ただ、監督にもいろいろな考えがあったでしょうし、次の世代の選手を育てなければいけなかったり、チーム全体の構成を考えていくことが優先されますからね。その時の気持ちを本人に聞いたことはないので、なんとも言えないところもあります。

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著者プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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