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篠塚和典が振り返る、1番・松本匡史がいたからバッターボックスで「楽しめた」こと (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

――松本さんは引退の2年後に、一軍守備・走塁コーチとして巨人に復帰。その後も二軍の監督やコーチなどを歴任されました。指導者としての印象はいかがでしたか?

篠塚 僕が現役時代に一軍のコーチもされているのですが、一塁コーチャーの印象はあっても、ノックをしていた印象があまりないんですよね......。自分の記憶が飛んでいるだけかもしれませんが(笑)。

 確実に言えることは、あれだけの盗塁(通算342個)を記録した"足のスペシャリスト"ですから、そのノウハウを伝えてほしいという要望があったからこそ、指導者として長く必要とされていたんだと思います。

【1980年代は「いいメンバーと野球ができた」】

――おふたりは長く巨人の上位打線を担っていましたが、篠塚さんにとって松本さんはどんな存在でしたか?

篠塚 僕が2番か3番で、松本さんが1番というケースが多かったですが、バッティングを楽しませてくれましたね。僕が2番を打っていた時は、松本さんが出塁した際には盗塁するのを待って打ったり、送りバントをすることも多かった。それが3番の時は、無死や一死で松本さんが二塁や三塁にいるケースが多く、打席のなかで考えることが多くなったんです。

 二塁にいる時はシングルヒットでタイミングが際どくても還ってきてくれますし、三塁にいる時はボテボテのゴロや浅いフライでもホームインしてくれる。だから僕は「どういうバッティングで松本さんをホームに還そうか」と、いろいろ考えを巡らせていたんですよ。そんなふうに、プレー中に「楽しい」と思えたのは、松本さんのような1番バッターがいてくれたからでしょう。

――バッティングを楽しめる状況を、松本さんが作ってくれたんですね。

篠塚 そうですね。それと、1980年代の巨人のレギュラーを張っていたメンバーは個性があって、タイトルを狙える選手がそろっていました。盗塁王なら松本さん、打点王やホームラン王なら原辰徳、ウォーレン・クロマティや吉村禎章などは首位打者を狙えました。レギュラー陣のバリエーションが豊かだったので1980年代はけっこう楽しめましたし、いいメンバーと野球ができました。

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