「8時半の男」宮田征典はどんな投手だったのか? セーブ制度導入前、リリーフとして絶大な人気を誇った (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 言い換えれば、首脳陣は投手・宮田に大きな期待を寄せていなかった。城之内が開幕戦で初登板初先発を果たしたのに対し、二軍スタートの宮田がリリーフで一軍初登板を果たしたのは6月。初先発は7月1日の大洋(現・DeNA)戦だったが3回で降板。2度目の先発となった8月2日の中日戦では完投で初勝利を挙げたが、その頃、城之内はすでに10勝を挙げていた。

【リリーフ=先発完投できない投手】

 結局、62年、城之内は56試合に登板。31試合に先発して14完投(5完封)で24勝12敗、280回2/3を投げて防御率2.21という圧巻の成績。新人王に選出された。対して宮田は28試合登板で4試合に先発し、2勝3敗、74回2/3を投げて防御率2.53。今の時代なら「1年目からリリーフで健闘した」と評されるところだが、「当時は違うんだよ」と城之内は言う。

「ピッチャーは先発して完投できなきゃ、リリーフをやるしかないという時代だからね。要するに、先発は完投するもんだと。そのなかで金田さん、稲尾さん、杉浦さんとかエースの人なら、次の先発まで3日空くとなれば、その間でリリーフもやる。まあ、オレもやったけどね。あとは、エースだったのが、力がなくなってきてリリーフに回るというのもあったな」

 通算400勝の金田正一(元・国鉄ほか)を筆頭に、61年にシーズン42勝の稲尾和久(元・西鉄)、59年に38勝の杉浦忠(元・南海)といったエースたちの全盛期。先発の合間にリリーフで登板し、そこでも勝ち星がついた。だからこそ、途轍もない勝利数を記録できたのだが、それだけ登板を重ねれば必然的に故障につながってしまう。

 実際、プロ7年間で通算164勝を挙げた杉浦は、8年目の65年、右腕の血行障害が原因で長いイニングを投げられなくなった。そこで同年途中からリリーフに転向したのだが、一時は<投球不能となり引退>と報じられ、最悪の場合は右腕切断も予測されるほど深刻な故障だった。杉浦自身、その時の心境を手記で綴っている。

<ついにショート・リリーフしかできなくなってしまった。先発完投ができないなんて、投手としてこれほどつらいことはない。連投でも何でもやってきた私にとって、物足りないのは当然のことである。しかし、そんな好きなことばかりは言っておれない。投げられるだけでもいいとしなくてはならない>

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