「8時半の男」宮田征典はどんな投手だったのか? セーブ制度導入前、リリーフとして絶大な人気を誇った (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「いやぁ、東都ナンバーワンとは言えないんじゃないかな。日大にはもうひとり、竹中(惇)という主力ピッチャーもいてね、どっちがエースかわからないぐらいだったから」

【もともとプロ野球に興味なし】

 その竹中が、宮田の人生を大きく変えた。もともと宮田はプロに興味がなく、卒業後は企業で勤務したあと、父親が経営する鉄工所を継ぐつもりだった。現に日立製作所への入社が内定していた。ところが、まだドラフト制度のない時代、巨人入団の仮契約を交わしていた竹中を中日が引き抜いた。理由は、愛知出身の竹中が巨人に入るのはけしからん、というもの......。

 当然ながら、巨人監督の川上哲治は憤慨し、日大監督の香椎瑞穂に「竹中の代わりを出せ!」と要求。そこで宮田が指名され、監督命令ゆえに断れず、巨人球団代表にも口説かれ、観念するしかなかった。プロ入り後3年間で通用しなかったらきっぱりと辞める決意のもと、入団した。同じ新人投手として、城之内の目に宮田はどう映ったのか。

「キャンプで初めて一緒にやってみて、オレのほうが上と思った。とくに真っすぐの球威とかね。それでオレはシュートがよくて、カーブもキレがあったから。ただ、コントロールに関しては、宮田のほうがよかったかもわからないな。フォームはオーバースローで、ストライクゾーンの四隅を突くだけの制球力があったから。それと、宮田は足が速かったんだよな」

 ノンプロの日本麦酒時代に「社会人No.1の速球投手」と評された城之内。入団後に主力の中村稔と村瀬広基をライバルと定めてキャンプを過ごすと、オープン戦では7試合に登板して4勝0敗、33回を投げて自責点1という好成績。新人ながら開幕投手に抜擢されるほどの即戦力右腕だった。一方、制球力はあった宮田だが、入団当初は野手としての起用が想定されていた。

 城之内も認めた俊足の宮田は、100メートル12秒。その足に首脳陣が魅力を感じたため、入団契約を結んですぐ、61年11月の秋季練習では内野手だった。宮田自身、日大時代に野手の経験があった。それでも打撃投手を務める機会は何度かあり、投げるほどに球速が上がっていった結果、投手一本となったのだった。

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