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江夏豊はプロ入りした江川卓を歓迎したが「巨人に入ったということは内心ガッカリした」 (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 ケガなどによってモデルチェンジする心境についての話になった時、江川が「僕は4年目で肩を痛めたことによって、コントロールをより身につけようとしました。生きる道を考えると、いろんな球種を投げられないので、コントロールとバッターの性格を知るっていうことに特化していくしかなかった」と語ると、江夏は己の覚悟の度合いを示すかのようにゆっくりと口を開いた。

「(プロで)18年やった人間と、半分の9年しかやってない人間の差が出ているよね。江川くんには失礼だけど、少なくとも江川くんよりもピッチングというものに対して苦しんだ人間だから。肩が痛い、ヒジが痛い......というのは嫌というほど味わった。それでも投げたからね。それこそ脂汗を流して投げて、投げて、投げ込んで、最終的にリリーフでなんとかメシが食えるようになった。たしかに肩が痛いとき、ヒジが痛いときにボールを投げるのは辛いよ。でもオレは、それを乗り越えた。顔を洗えない、箸が持てない、そんな時でもボールだけは持てるんだから」

 この時は、本心を見せたかったという部分もあっただろうし、同時にもっと現役に執着してほしかったという思いも含まれていたに違いない。

 無四球試合は、江夏(21試合)より江川(23試合)のほうが多かった点について、江夏に尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「場合によってフォアボールを出さなければいけない時もあるから、負け惜しみじゃないけど、それがすべてではない」

 その言葉を聞いて、江夏の強烈なプライドを感じた。それは、ほかの後輩には絶対に見せない、江川だからこそ見せた姿だった。

 そして今まで自信を持って投げた球を打たれたことがあったかという質問に対し、江川は「インハイを勝負球にしている以上、打たれたこともあった」と言うと、江夏は間髪入れずに「打たれたことはない」と断言した。

 一流が一流を知るではなく、超一流が超一流を知らしめる。このふたりだからこそ生まれた名勝負は、永遠に人の心のなかで輝き続けるだろう。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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