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巨人ショートのレジェンド河埜和正は、中学時代はバレー部、高校での遊撃手経験もわずか半年......なぜドラフト6位で指名されたのか (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

── 74年、河埜さんへの死球に抗議した川上監督が、生涯唯一の退場処分を受けます。

河埜 あの"退場事件"ですね。いつも打撃コーチや先輩方から「死球を受けたぐらいで痛がるな」と言われていました。だから、あの大洋戦での死球の時も、痛くないそぶりをしていたら、球審は「ファウル」のジャッジ。「冗談じゃないよ」と思って、アンダーシャツを捲り上げると、当たった箇所がみるみるうちに腫れてきたんです。それで川上監督が出てきて、「河埜がこんなに説明しているのに、何を言っているんだ!」と猛抗議して審判を小突き、退場処分となったのです。交代した私と川上監督は、川崎球場の狭いロッカー室で無言のまま異様な雰囲気で試合終了を待っていました。川上監督には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

── その74年は119試合に出場してレギュラーに定着。大洋戦でジョン・シピンのライナーを好捕し、レギュラーの座を確実にしたと言われています。

河埜 ライナー捕球をマスコミが大げさに書いただけじゃないですか(笑)。ライナーを捕る、捕らないはタイミングですからね。これもバレーボールの経験が役に立ったのかもしれません。

 あの当時、川上監督はこんなアドバイスをくれました。「河埜、しゃかりきに打たなくてもいいぞ。三遊間のゴロを捕って、アウトにしてくれ。ヒットをもぎとることは、ヒット1本打ったのと同等の価値があるんだ。おまえは守るだけでメシが食えるようになるから。周りを見てみろ、1番から打つヤツがたくさんいるだろう」と。そういうことを言ってもらって、「打たなきゃレギュラーを奪われる」という不安が消え、気がラクになりました。

── そうした気持ちの余裕が、74年の「(2試合にまたがっての)3打席連続三塁打」の日本記録を生んだのかもしれないですね。

河埜 広い甲子園球場だったので、左中間、右中間を抜けたら三塁まで狙おうと思っていました。

── そういえば河埜さんは打席に入る時、バットでホームベースを3回叩くルーティンがありましたね。

河埜 真ん中、外角、内角の順にミートポイントを確認していたんです(笑)。

後編につづく>>


河埜和正(こうの・かずまさ)/1951年11月7日、愛媛県生まれ。69年、八幡浜工高からドラフト6位で巨人に入団。強肩・巧打の遊撃手として活躍し、74年にダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)、77年にベストナインを獲得した。86年のシーズンを最後に現役引退。その後は、巨人のコーチ、スカウトを歴任し、巨人が運営する「ジャイアンツ・ベースボールアカデミー」の校長も務めた

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