石毛宏典らプロを多数輩出 今こそ知ってほしい社会人野球の名門・プリンスホテルの歴史 (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

【新球場建設と球団買収】

 堤が集客の目玉として考えていたのは、巨人の地方遠征試合の誘致だった。だが、巨人の地方遠征は、親会社=読売新聞の販売戦略に不可欠なもので、すでに優位に立つ首都圏の貸球場で興行する必要はない......。結局、構想は頓挫するのだが、球場の建設は始まっていた。そして、そんな時に、クラウンライターライオンズのオーナーが堤に身売り話を持ちかけてきたのだ。

 78年の夏のことだった。球団経営が行き詰まっていたクラウンから、半ば押しつけられたも同然だった。しかしながら、クラウンはじめ他球団の経営者からすれば、新球場を建設中でもある西武グループが球団を買収しない理由はどこにもない、といった見方になる。必然的に、西武ライオンズ誕生の道ができた。

 買収に当たっては、西武が所有していた大洋の株を売却する必要があった。球団運営と試合の公正を保つため、複数の球団の経営に携わることは野球協約で禁じられているためだ。売却先はニッポン放送とTBSで、3億円で取得した株は12億円になったといわれ、これがクラウン球団を買収する資金となった。その一方、プリンス野球部は前年から準備が進められていた。

「プリンスホテル野球部と西武ライオンズが同じ時期にできた、というのはたしかなんですが、実際には、最初にプリンスをつくって、次に球場をつくろうとして、つくり始めたところに身売り話が来てライオンズなんです。それで私は早稲田の監督をやりながらプリンスのチーム編成に取りかかっていたんですが、あらためて、ホテルという場は野球に強いなと思いましたね」

 ホテルは宿泊するだけではない。高校、大学野球部の優勝祝賀会、OB会、企業のパーティー、選手の結婚披露宴等々、支配人とアマチュア球界との接点が数多く生まれる。当時、西武グループが経営するホテルは全国に37カ所あった。そこで石山は、各地のプリンスホテル支配人を中心に自ら作成した選手リストを配布し、スカウティングへの協力を求めた。

「最初、堤さんは早稲田出身の選手だけで社会人チームをつくろうとしていました。そこで、もっと強くするためには──と進言して、東西の大学の優秀な選手を集めることになったんです。私自身、大学の全日本チームにコーチとして同行した際、『オレがチームつくるから、卒業したらみんな来い』と声をかけたこともありました」

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