八重樫幸雄が振り返る「師匠」中西太 若松勉らを育てた柔軟な指導から、オープンスタンスが生まれた (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

【極端なオープンスタンス「八重樫打法」の生みの親】

 さっそく中西さんに相談してみたところ、「まずは顔を開いてみたら?」とアドバイスをもらいました。「顔を開く」というのは、横目で投手を見るのではなく、「正対するように両目で相手投手を見ろ」ということでした。この時点では、後のようなオープンスタンスではなく、オーソドックスにスクエアに構えて立っていました。

 中西さんの指示通りに取り組んでみると、完璧ではないけれど、少しずつ自分のタイミングを取り戻している感覚が芽生えてきました。しかし、まだ好不調の波は大きく、顔を正対し始めた頃はよかったけれど、それが長続きしませんでした。

 すると中西さんは、「スタンスも少し開き気味にしてみたらどうだろう?」とアドバイスを与えてくれました。最初は半歩くらいアウトコースに開いてみたのですが、なかなかいい感じです。ここから試行錯誤を繰り返していくうちに、タイミングの取り方も少しずつよくなっている手応えを感じました。

「これはいいぞ」と思ったのも束の間、新たな問題が生まれました。当時、僕は銀縁のメガネをかけていたのですが、相手投手がカーブを投げる時に、一瞬だけメガネのフレームから外れてしまい、とてもボールが見えにくかったのです。現在のようにフチなしのメガネはまだ一般的ではなく、乱視気味のためにコンタクトレンズも使えなかった僕は途方にくれました。

 せっかくタイミングを掴みつつあったものの、今度は銀縁フレームの問題で、また一からバッティングフォームを作り直さなければならなくなりました。しかし、中西さんは何も動じることなく、「もっと開いてみたらどうだ?」と言ってくれました。

 初めは半歩だけでしたが、次に1足分ほど足を開いてみました。そして、さらに「もう少し、もう少し」と足を開いていくうちに、2足半から3足も三塁寄りに足を開き、身体ごと投手に正対するフォームになっていました。

 これが、後に多くの人からマネされたり、今でもつば九郎からかわれたりすることになる極端なオープンスタンス「八重樫打法」の始まりです。

 最初に述べたように、中西さんは選手個々人の身体の特徴にあった打撃フォームを提案してくれる柔軟性がありました。思えば、西鉄ライオンズの選手兼監督時代に竹之内雅史さん、基満男さんのように独特な打撃フォームで構える打者の指導もしていました。こうしたこともあって、あの極端な「八重樫打法」についても違和感がなかったのではないでしょうか。

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