ドラフト指名しながら「やっぱ、いらない」。その屈辱がヤクルトの大エースを作った (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 1977年の鈴木啓示(元・近鉄)以降、80年の堀内恒夫(元・巨人)、82年の山田久志(元・阪急)、江夏豊(元・阪神ほか)、83年の平松政次(元・大洋)、84年の東尾修(元・西鉄ほか)と、ほぼ毎年のように200勝投手が誕生していた。いずれも、47年生まれの松岡さんと同年代もしくは歳が近いだけに、「俺だって」という気持ちは強かったはずだ。

 当時とは投手の起用法が変わり、200勝投手が生まれにくい今の時代の西口とは置かれた状況がたいぶ違う。現に西口は、182勝で終わったことについてこう言っている。

〈悔いはない。プロに入るときはここまで勝てるとは想像もしてなかった。自分のなかで"やりきった"と思えるから清々しい気分。解放感しかない〉

 本当にそうなのだろう。しかし松岡さんの〈仕方ないよ〉は本心だったのかどうか──。そんなことを考えながら、取材の準備を進めた。僕自身、小学生のときから現役時代のプレーを見ていたが、調べてみると知らないことのほうが多かった。

 東京・世田谷にある松岡さんのご自宅、マンションの集会室が取材場所となった。2週間前にヤクルトがリーグ優勝を決め、クライマックスシリーズも突破して日本シリーズ開幕は2日後。初優勝に貢献した元エースに会うタイミングとしては絶妙と思えた。

 エントランスまで出迎えてくれた松岡さんは、水色のジーンズにダークグレーのボタンダウンシャツを裾出しで合わせていた。そのスタイルは186センチという長身にぴたりと合い、スリムな体型とあいまって68歳(当時)という年齢を感じさせない。挨拶をするとアーチ状の眉の下、眼鏡の奥で目尻が下がった。

 集会室はさまざまな植物で緑いっぱいの中庭を臨む全面ガラス張りの部屋で、大人4〜5人で使うのにちょうどいい大きさの丸テーブルがひとつ置いてある。名刺を交換して面と向かったあと、「ヤクルトの優勝もきっかけになりまして」と僕が言うと、松岡さんは甲高い声で笑った。さらに西口の名前を出して取材主旨を説明すると、足を組んで言った。

「そうだねえ、西口。でも秋山さんもそうだし。長谷川さんなんか197勝だよ」

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