江藤慎一に弟のようにかわいがられた江夏豊 逮捕後も「おい、やんちゃくれ来いと言ってくれた。実質、兄貴やったかな」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 江藤は江夏が腕一本で海を越えて海外へ野球をやりに行くことを我がことのように喜んだ。何となればそこに夢があったからであろう。

 江夏から渡米する話を聞いた夜、江藤は大洋時代のチームメイトで離日後はサクラメントに暮らすクリート・ボイヤーに国際電話をかけた。あの阪神タイガースにいたサウスポーのエナツが、3Aバンクーバーとの契約を交わし、ブリュワーズへの入団を目指してアメリカに行く、ついては何かあれば支えてやってくれないか。ボイヤーは「どうしてもっと早く教えないのだ。うちのアスレチックスでもエナツの力になれたではないか」と半ば怒りながら、約束を守ってくれた。

「どこだったかな、アメリカのちょっと地名を忘れたけど、オープン戦で会ったときに、ボイヤーはすぐ来てくれて、片言の日本語で江藤からのコメントだっちゅうことを言ってくれた。アジア人への人種差別もある広いアメリカで江藤さんの名前を聞いただけでもやっぱりほっとしましたね」

 36歳の江夏はアリゾナ州フェニックスのブリュワーズのキャンプ地で3か月に渡ってメジャー昇格に向けて闘い続けた。その間、江藤から2度、手紙が届いた。

「プレーや環境については何も具体的になかったですが、武士は刀だけは常に磨いておけというようなことが書かれていました」

 孤独な挑戦のなかでひとときの励ましになった。言葉の通じない慣れぬ異文化のなかで通訳もつかず、その待遇は日給25ドルで身の回りのことはすべて自分でやらなくてはならない。

「日本人のいないチームで、相手も、日本人との接し方がわからない。だから、戸惑うケースが多かった。人種差別いう言葉、日本では簡単に言ってるけど、やっぱりかなり窮屈なとこがあって、トイレも白人専用でそこは使うなと言われたところがありました。キャンプでは、夜寝る時に、日本におれば、もうちょっといい思いをして暮らせるのに、俺はなんでこんなところに来て、こんな寂しい思いして寝ないかんのかっちゅう。それは、何回か思ったけど、自分で割りきらないとしゃあないと思い至った。だから、やっぱりアメリカに行った3か月間というのはいい勉強になったね」

 江夏はテストの最終段階までロースター(登録)に向けて結果を出し続けてきたが、最後のイスを巡ってテッド・ヒゲーラに敗れた。1985年4月、リリースが告げられたが、悔いはなかった。

「自分は広岡さんに投手としての死に場所をとられて不完全燃焼やったから、投手魂を納得させる場所がほしかったんやね。最後に結実した」

 心酔する新選組の土方歳三は幕臣でありながら、侍として燃え尽きるために函館五稜郭に死に場所を求めた。それが江夏にとってはブリュワーズのキャンプだった。江夏と争ったヒゲーラはこの年15勝をあげる。いかにレベルの高い戦いであったことか。

 これより10年後、野茂英雄が近鉄を退団し、メジャーへの入団を表明した際、ほとんどのマスコミや評論家はバッシングを繰り返したが、江夏は野茂の夢を支持して応援する論陣を張った。それが自身の体験からきていることは言うまでもない。

 メディアも球界も夢を追う後進をなぜ、応援してやらないのか。

「俺も野茂もメジャーに行く最初は頑張れという声を聞いたことがない。そういう状況で(アメリカに)行ったんだから。野茂への応援は、やっぱりいい意味で、江藤さんが俺を思ってくれた気持ちと同じやね。いや、うれしかったしね。また俺やから、野茂も喜んだんじゃないかな」

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